その白く細き手に



「車出すよ。結構荷物多いだろ」
 高三の十二月。明日帰省する予定の裕太に、周助から電話があった。
「別にいい。コンビニから送るし」
 家から寮までは車で一時間くらいかかる。ドライブ好きな姉に寮まで送ってもらったことは何度かあるが、わざわざ迎えに来てもらったことはない。
 しかし周助は夏休みに免許をとって以来、裕太が帰ろうとするたびに迎えにくると言うし、それ以外にもなにかあると送るの迎えにいくのドライブに行こうだのとうるさい。
(来年は絶対免許をとってやる)
 実家にはさすがにもう車を止めるスペースがないので、免許を取ったら周助の乗っている気取った車を共有することになりそうだが、そのことはとりあえず考えないことにした。
「じゃあドライブがてら迎えに行くよ。荷物をコンビニに持っていくのも大変だろう?」
 だからその『ドライブ』をしたくないのだが、遠回しに言ってもこの兄には通じないようだ。
「ドライブだったらもっと別なとこにいけよ。こんなとこ来たってつまんねーだろ」
「つまんなくはないよ。何時ごろがいい?」
「だからこなくていいって」
「僕と二人きりなのが嫌?」
 本人にズバリ指摘されると言葉が続かない。それをわかっていて、わざとそう言っているわけだから、やっぱりこの兄は少々性格が悪いと思う。
「裕太の気持ちはわからないでもないけれど、今回は車がないと大変だよ? 裕太、こっちで受験勉強するんだろ? それに……そろそろこっちに戻ってくる準備もした方がいいし。いらないものは車につんで運んだ方がいいんじゃない?」
 そう言われてみれば確かにそうなのだった。
 裕太は卒業したら家に戻る予定で、しかも冬期講習や直前講習の予備校は実家からの方が近いから、明日家に帰ったらもうあまり寮に戻ることがない。
(冬期講習が終わって、いったんこっちにもどってきて……で、また直前で家に帰るだろ。もうあんまここに帰ってこねぇんだな……)
 中等部と高等部と場所は変わったが、実質五年半も住んだ場所なのに、去るときはあっけないものだ。
「どっか寄りながら帰ってもいいし。何時がいい?」
「じゃあ二時」
 色々考えると、迎えに来てもらった方が楽なのは確かだ。裕太は仕方なくそう言った。
「十一時頃にしない? 行ってみたい蕎麦屋があるんだ」
 どうやら周助は初めから予定を決めていたらしい。なのに何回か時間を訊いてきたのは、裕太に返事をしやすくさせるためなのだろう。周助はそういうところの配慮が細かい。
「わかった」
「じゃあ十一時に。近くになったら電話するよ」
 その後あれこれと話して電話は終わった。


 毎年部屋替えがあるとはいえ、五年半分の荷物となると結構ある。裕太はもう寮では使わない物を段ボールに詰め始めた。
「おーい、裕太」
 ドアがノックされ、馬術部の坂上が入ってきた。坂上とも、もう五年半のつきあいになる。
「あれ? もう引っ越しの準備してるのか? そうか。お前、実家に戻るんだっけ」
「まあな」
「じゃあ三学期はあんまこっちに帰ってこないんだな」
「ん、まあ……」
 長く過ごした友人達とはもう家族みたいなものだ。別れるのだと思うとやはり寂しい。
「でも坂上も東京なんだろ」
 しかし、寮でともに過ごした仲間とのつきあいは、一生続くことが多いのだと聴く。去年卒業した先輩たちともなんだかんだとよく会っている。
「やっぱ馬を続けるにはこっちだしな」
 坂上は馬術の盛んな大学への推薦が決まっている。裕太の家からもさほど遠くないので、裕太が受かったらゆっくり遊ぼうと予定を立てていた。
「田丸も佐藤もこっちだったよな」
「東京で大学に行きたいっていうのが一番自然だしなぁ」
「自然?」
「ほら、うちなんてとっくに俺の部屋ないしさ。だいたいどこもそうだろ。親は帰ってこいって言ってたけど、妹とかと何話していいかわかんねぇし……。妹なんてもう自分は一人っ子だと思ってそうだしな。親もそんなもんだし」
 それを聞いて、裕太はなんと答えていいのかわからなくなった。

 『裕太の部屋にちょっと荷物を置こうとしたら、周助がすごい勢いで怒るのよ』―――昔、姉にこっそりとそう言われたことを思い出す。そうだ。普通は荷物を置かれて、いつの間にか部屋がなくなっていくのだ。
「裕太のとこは昔からしょっちゅう帰ってこいって言われてたもんな」
「……」
 少しだけ寂しそうに言われた言葉に、どう答えていいのかわからない。
「へんな顔してんじゃねぇよ。俺だって実家が東京だったら実家に帰ってたって。ほら、俺、一人暮らしだからさ、いくらでも遊びに来いよ。そういや春休みの話だけどさ、どこ行く?」
 春休みの予定を色々と相談して、坂上は自分の部屋に帰っていった。


 何もない週末に、帰ってこいと言うのは周助だった。母や姉からも言われたが、それは周助が始終そう言っていたからだったのだろう。
 裕太が本当に居るべきなのはあの家で、今はたまたま寮で暮らしているだけだと、周助は態度で示し続け、結局そうなった。

 次の日、周助は「たくさんあるね」などと言いながら、荷物を運ぶ手伝いをしてくれた。
 途中、評判が良いらしい蕎麦屋に寄り、近くにあった有名な寺に寄ってから実家に戻る。
「あら。大荷物ね」
 段ボールを玄関に置くと、迎えにきた母が驚きながら言った。
「うん。ほら、裕太、もう寮に戻ることも少ないから」
 周助が裕太に代わって答えた。
「あらそうね。じゃあ全部持ってくれば良かったのに」
「さすがに全部じゃ大変だよ。これでも受験生なんだから」
「これでもってなんだよ」
 裕太はそう言いながら靴を脱いだ。
 見上げると周助がさっさと荷物を上に運んでいた。


 裕太も荷物を持って階段を上がる。先に裕太の部屋に入っていた周助が、荷物をどこに置くか聞いてきた。
「その辺に置いとけ」
「ん」
 周助は嬉しそうに部屋の隅に段ボールを置いた。
 荷物をほどいて、参考書を机に並べ始めると、周助がすっと手を伸ばして手伝い始める。
「この本はここでいいの?」
「ああ」
 いかにも器用そうな、白く細い手が裕太の本棚に本を並べていく。
 裕太はその手の動きを見ていた。
「どうしたの?」
「別に」
 あの白く細い手は昔から変わらずに裕太に向かって伸ばされていた。裕太が反抗していた時も、普通の人間なら少しずつ相手の存在を忘れて忘れてしまうような時間が流れても、その手は変わらずにそこにあった。
 この手がなかったら、自分は今、ここにはいなかっただろう。裕太はそう思った。
「兄貴」
 裕太が呼びかけると、周助は嬉しそうな表情のまま振り返った。
「……ただいま」
 少し真剣な声でそう言うと、周助はしばらくきょとんとして、そして泣きそうな顔で笑った。
「おかえり、裕太。ずっと待ってたよ」
 その周助の声はわずかに震えていた。
「ただいま」
 もう一度言うと、周助は眼を閉じて頷いた。
「ばーか。こんなことぐらいで泣いてんじゃねぇよ」
 そう言いながら、裕太は帰ってきたのだ、と思った。
 長い時間をかけて、帰るべき場所に帰ってきた。眼をぎゅっとつぶって泣いている周助をみながら、裕太はそう感じていた。


 


 たとえ恋愛ではなくても、お互いに一番大切な存在、という感じで。
 笑う大天使という漫画がありまして、そこに出てくる兄妹が、恋愛ではないんだけど(恋愛に見えましたが)なんだかんだしながらお互いを大切にしあっていて、結局一生一緒に暮らすんですよね。なんとなくそんなイメージで。