無題 裕太編(家族3)

重苦しい上に途中までで終わりですが、佐倉の裕太の基本設定が入っているのでサイトにアップ(まとめて本にする予定のもののさわりです)

  

 そんなとき、俺は観月さんと出会いました。
 観月さんは俺が一番必要としている言葉をくれました。
 観月さんは俺を俺として見て、しかも俺の可能性を見いだしてくれました。
 俺には俺自身の才能があると、それを伸ばすことができると、観月さんは言いました。
 つぶれかけていた俺にとって、一番欲しかった言葉でした。

 学校をかわる。家も出てゆく。そして俺の才能を必要とし、伸ばしてくれる学校に移る。
 まだ中学一年生ですから、俺はそれまでそんなことは考えたこともありませんでした。
 でも、学校をかえ、家を出てゆけば、俺は不二周助の弟ではなく、不二裕太になれるかもしれない。
 観月さんは俺が一番必要としている言葉をくれたばかりでなく、俺が潰れてしまいそうな場所から抜け出す手段まで教えてくれました。
 一度その手段を知ってしまうと、俺はそれ以外考えられなくなりました。

 観月さんの性格を知っている今となっては、あまりにもタイミングの良かったあの出会いやあの言葉が、果たして偶然のものであったのかわからないのですが、たとえ仕組まれたものであったとしても、俺の観月さんへの感謝の思いは変わりません。たとえ俺を褒めるあの言葉が嘘であったとしても、あのときの俺に必要だったのはあの一言でした。
 たとえ観月さんが本当は不二周助の弟として俺を見ていたのだとしても、観月さんは最後までそれを隠し通す人ですし、隠してくれているだけで俺にとっては充分なのです。

 そして俺は学校も家も捨てる決心をしました。そうしないともう生きてはいけないほど、追いつめられていたのです。尽きることなく兄の話題をする人々、兄のせいで俺の才能を過大評価する人や、逆に兄と比較して俺を見下す人。なのに、一向に伸びない自分の才能。そして、天才として認められている兄。俺はその場所から抜け出さないと、俺になれない。そして俺は俺になりたかった。

 両親や姉は、俺が寮のある学校へ移ることに始めはとても驚きましたが、どうしても聖ルドルフに行きたいというと最後にはわかってくれました。俺は新天地でやり直したかったのです。


 問題は兄でした。

「裕太、家を出ていくって本当?」
 兄は何かを思い詰めたつめたような顔をしていました。そんな顔を見るのは初めてでした。
「ああ」
 俺はまだ十二才で、自分の人生を自分で切り開いてゆくほどの覇気はありませんでした。だから、もしここで兄がうまく止めていたら、俺はルドルフに行っていなかったかもしれません。
「どうして? そんなに僕が嫌い?」
「そういう訳じゃねぇ」
「裕太、わかってる? 聖ルドルフは中高一貫校だ。出ていったら、もうずっと帰ってこれないんだよ?」
「んなことはわかってるよ」
 それは嘘でした。俺にはそこまでの覚悟はありませんでした。ただ、今すぐ青学や家から出たかった。ただそれだけでした。
「どうして出ていくの? ここからだって通えるだろう」
「通えねぇよ」
「裕太」
 兄は俺の両腕を掴み、何か言いたげに俺を見つめました。
「裕太」
「なんだよ」
「行っちゃ駄目だ」
「お前にそんなこと言われたくねぇよ」
「裕太」
 いつの間にか俺は兄の背を追い越していました。兄はすがりつくように俺を見ていました。いかないでくれと心の底から懇願しているのがわかりましたが、その兄の気持ちの重さを俺は受け止めることができませんでした。
 兄は掴んだ腕に力を込め、俺に何かを訴えようとしていました。
「痛い」
「あ、ごめん。裕太、聖ルドルフはそんなに強くないよ。青学の方が―――」
「なんだよ、それ」
 今ならば、それは兄が俺を止めようと苦し紛れに言った言葉だということがわかるのですが、そのときは俺の強さも否定されたような気持ちがしました。
「俺はルドルフに行く」
 兄はしばらく俺を見ていました。
「………うん。わかった。でも家には帰ってきなよ」
 その兄の様子を見て、俺は兄をとても傷つけたのだということがわかりました。
 しかしそんな兄を見ながらも、俺はしばらく家には帰ってこないだろうなと漠然と思っていました。

 俺にとっては、やはり兄は親代わりのような人です。そのときは自分自身、兄が嫌いだと思っていましたから、あまり意識には昇っていなかったのですが、ここで兄を傷つけても、自分が成長すればきっと兄は喜んでくれる、その後で兄と仲直りすればいいというような気持ちもどこかにあったのだと思います。

 俺が聖ルドルフで強くなれば、兄もきっとわかってくれる。そう思いました。
 俺は兄が自分と一つしか違わない、ただの子供であるということに気づいていませんでした。

 兄は俺を強く抱きしめてきました。
「裕太。裕太がどこに行っても、僕のことを嫌っても、僕たちはずっと兄弟なんだ。忘れないで」
 まるで俺の中に兄の存在を刻み込むように、兄はそう言いました。
 俺はそれがとても怖くなり、兄の体を突き放しました。
「てめぇとなんか兄弟でいたくねぇよ」
 言ったとたん、さすがに言い過ぎたことはわかりました。しかし、言葉は取り消すことができません。
「うん………。時々は家に電話をしなきゃ駄目だよ」
 何事もなかったように、兄は続けました。でももう俺に触れてくることはありませんでしたし、兄自身に連絡をしろと言うこともありませんでした。

 そうして俺は家を出て、聖ルドルフの寮で暮らし始めました。