透明な檻の中で



  
 「裕太は僕の気を惹くのがうまいよね」
 二週間ぶりに家に帰り、暇なので兄貴を巻き込んで部屋でゲームの対戦をして、負けて悔しがっていたら、いきなりそんなことを言われた。

 今、気を惹くって聞こえたような気がするが、たぶん何かの聞き間違えだろう。何を聞き間違えたのか気にはなるが、なんとなく聞き返してはいけないような気がして、俺はそれを無視することにした。
「もう一回やろうぜ。今度は負けねぇから」
「聞こえなかったフリ? さすがうまいね、裕太」
「なんだよ、一体」
 兄貴はどうしてもその話がしたいらしい。俺はコントローラーをおいて、兄貴の方を向いた。
「負けて悔しがって見せたり、聞こえなかったフリをしたりさ、僕の気を惹くのがうまいよね、って話」
「気を惹くって…妙な言い方すんじゃねぇよ。別に何もしてねぇだろ」
「してるよ。動作の一つ一つが自分を好きになってくれって言ってる。裕太は僕が裕太を嫌いになるなんて考えたこともないだろう?」
「なに…」
 今、兄貴に言われた言葉が信じられなくて、俺は兄貴を見た。
 …………?
 ちょっとまて。こいつなんか変だ。いつものように笑ってないし、声も感情を押し殺したように低い。
「お前、どうしたんだよ。なんか変だぞ」
「変じゃないよ。ねぇ裕太、前から気になってたんだけど、それはわざとなの?それとも無意識?」
 兄貴はそう言いながら、俺の頬に手を添えて顔を近づけてきた。
 兄貴の雰囲気がおかしい。これじゃまるで……
「兄貴!」
 兄貴の顔がどんどん近づいてきて、俺は叫んだ。しかし兄貴はそれを気にせず、そのまま俺の唇に兄貴の唇を押しつけ、すぐに離れていった。
「どっちなの?裕太」
 どっち?ああ、さっき妙なことを聞かれてたんだっけ。いや、そんなことより、今、兄貴は俺に何をした? この唇に残る感触。これはいったい何なんだ。
「お前、いま……」
「ああ、キスしたんだよ。されて当然だと思わない?」
 兄貴はまったく笑っていない。それどころか、まるで知らない人間を見るかのような醒めた瞳で俺を見ている。
 さっきからなんなんだ。何かこいつの気に障ることでもしたというのだろうか。
「そうやって見てれば僕がやめると思ってる?今日はやめてあげないよ」
「どうしたんだよ、お前。なんかおかしいぞ」
「まだ普通のフリをしようとするの?裕太。もう無理だよ」
 そう言って、兄貴はまた俺に口づけてきた。
「裕太が普通の弟のままだったら、僕だってきっとこうはなってなかったはずだ。こうなったのは裕太、君のせいだよ」
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇよ」
 俺は頬に添えられた兄貴の手を振り払った。兄貴は俺の手をつかんで、そこに唇を落とした。
 まだ兄貴の瞳は冷えたままで、まるで俺に何かの罰を与えるかのように、手の甲や指先に唇がおとされてゆく。それを見ていたくなくて、俺は目をそらした。
「裕太。僕はいつまで君と兄弟でいればいいの?」
「いつまでって……なんだよ、それ」
「兄弟っていうのは、他の人を選ぶっていうことだろう?裕太は僕を手に入れておいて、その上まだ他の人を手に入れるつもりなのかい?」
「兄貴……」
 静かな表情のまま兄貴は俺を追いつめてくる。
「裕太は普通の兄としての僕と、裕太が特別な僕とどっちが欲しい? 普通の兄が欲しいなら、これからは僕の気を惹こうとするのはやめて欲しい」
「なに…言って…」
 これがあの兄貴だろうか。多少意地の悪いところはあるが、いつでも結局は俺に甘い、あの兄貴だろうか。
「僕の言っていることの意味はわかるだろう?」
「わかんねぇよ!」
 俺は叫んだ。本当にわからない。でも、わからない俺の方が悪いのだろうか。
「わからないなら、もう一度言ってあげてもいいよ」
「いらねえ。なあ、兄貴。こんな話はやめようぜ」
「やめてどうするつもり?このままでいたいの?このまま、意味のない兄弟ごっこを続けたいのかい?」
 そう言って、兄貴はまた俺にくちづけた。
 他人のような兄貴の瞳と、繰り返される口づけが、ますます俺を混乱させる。
「だって兄弟だろ」
「そうだね。でも、そこから逃げ出したのは裕太の方だ。裕太が逃げなければ……いや、逃げた上にまた戻ってきたりしなければ、普通の兄弟でいられたかもしれない」
「…………」
 俺は何を言ったらいいのかわからなかった。この部屋から逃げ出してしまいたかったが、なにかに繋ぎ止められたかのように身動きができない。
「裕太には責任があるよ。これまでのは仕方がないから許してあげてもいいけど、まだ続けるつもりなら、その責任をとるべきだ」
「どういう……意味だ?」
 俺には兄貴の言っていることの半分も理解できない。
 兄貴は、俺がかつて兄貴をひどく傷つけたことの責任をとれと言っているのだろうか。それとも……。
 頭に浮かんだあり得ない想像を、俺は即座に否定した。
「裕太が思っているとおりの意味だよ。お互いわかってるのに、しらばっくれるのはやめよう。欲しいものがあるなら、それなりの対価を払わなくちゃいけない。自分だけ安全なところにいて、欲しいものだけ手に入れようだなんて卑怯だよ」
「何言ってんだかわかんねぇよ」
「わかりたくないの間違いだろう?でも、やめるって言っても、もう許してはあげないかもしれない」
「どういうことだ?」
 兄貴は俺の頬に手を添えた。
「裕太は僕の応援にきたり、こなかったりするね。どうして?」
「どうしてって、そんなの別に意味なんかねぇよ」
「帰ってくるのだってそうだ。毎週帰ってきて、僕が裕太のいるのに慣れ始めると、また二ヶ月も帰ってこなかったり、そうかと思えば何の知らせもなく家に帰ったら裕太がいたりする。そのたびに僕がどういう気持ちになるかわかるかい?」
「帰ってくるなってことかよ」
「そうじゃないよ。裕太がいてくれれば嬉しい。でもそうやって裕太が来るたびに一喜一憂して振り回される。裕太はそれを知っているよね?」
「何が言いたいんだよ。わかんねぇって」
 わからない。わかりたくない。兄貴はいったい何を言ってるんだ?
「本当にわからないの?そうやって僕を振り回すのは楽しいかい?」
「振り回してなんかねぇだろ。兄貴、もうやめてくれよ」
 これ以上こんな話を聞いていたくない。自分の中の大事な何かが引きずり出され、醜い何かに変えられてゆくような気がする。
「裕太、僕がほしいのなら、それ相応の覚悟でおいで。自分だけきれいな場所にいて、僕を手に入れようだなんて虫が良すぎるよ」
「やめろ!」
 俺はこれ以上聞きたくなくて、両手で耳をふさいだ。違う。そんなんじゃない。俺はそんなことをしてはいない。心の中でそう繰り返す。でも、だんだん、自分が何を否定しているのかわからなくなってゆく。
「そうやって僕を手に入れたあとはどうするつもりだったの?手に入れた僕を兄弟の枠に押し込んで、次は観月でも手に入れるつもりだったのかい?」
 耳をふさいでも、兄貴の声は容赦なく俺を責め立てる。耳をふさぐ手にさらに力を込めると、兄貴が無理矢理その手をはがした。
「そんなのは許さないよ。裕太、いい加減自分の行動の責任をとりなよ」
「責任って……なんだよ…」
 俺はまるで何も考えられなくなって、ただそう聞き返した。
「裕太を全部僕に頂戴? そうしたら、代わりのものはあげるよ」
「え……?」
「裕太はそれだけのことをしたよ。だから裕太を頂戴?心も体も全部。そうしたら裕太に僕をあげるよ。ずっと欲しがっていただろう?」
 兄貴の声が俺を侵してゆく。
 兄貴の言うように、俺は兄貴に何かをしていたのだろうか。
 わからない。でもそうなのかもしれない。俺は兄貴の俺への想いが変わっていくのを知っていた。
 でも……ただそれだけだ。それだけだったはずだ。俺は知っていた。ただそれだけで……でも、それは不愉快なものではなかった。
 俺は、もしかすると本当に……
「裕太、どうするの?」
 追い立てるような兄貴の声に、俺は考えることができなくなっていく。
 そうだ。知っていた。知っていて……兄貴が俺を好きになっていくのを見るのは嫌ではなかった。
「それとも普通の兄弟に戻る?」
 そう言いながら、兄貴はまた口づけてきた。
 俺は自分を支えている何かが壊れてしまいそうで、目の前にいる兄貴を見つめることしかできない。
「兄貴……は、どうしたいんだ」
 兄貴はただ微笑んでいた。でもその笑みは誰にでも見せる他人の笑みだ。
 ひどくもどかしい思いに駆られる。誰かに助けてほしかった。そして俺を助けてくれる人間なんて、目の前にいる兄しかいないのだ。
「俺はわかんねぇよ」
 そう言うと、兄貴は何もかもわかっているような顔で笑った。
「そうだね。裕太は自分の気持ちがわからないからね」
 自分の気持ちがわからない? そうなのかもしれない。転校したときも、そのあと兄貴を嫌いじゃなくなったときも、俺は自分で自分の気持ちがわかっていなかった。
 また兄貴が顔を寄せてきた。そのまま口づけられ、俺の体はふるえた。
 なんども口づけられて、俺は少しずつ兄貴のものになっていっている気がする。これが俺の望んでいたことなんだろうか。俺にはわからない。
 俺が兄貴を手に入れたくて、兄貴を振り回していた? そうなのだろうか。
「やっぱりわからないんだね。なら、僕が決めてあげようか?」
 ようやく兄貴が優しく微笑んだ。俺はそれにほっとして、そのまま頷いた。
「じゃあ、僕が決めてあげる。………裕太は僕のものだ」
 抱きしめられて耳元でそうささやかれる。
「わかった」
 そう言ったとたん、すがりつくように強く抱きしめられた。
「裕太、好きだ。好きなんだ」
 表情は見ることができなかったが、俺はそれが今日初めて聞いた兄貴の本当の声だと気づいた。

 


少し病み気味の不二兄弟って感じです。
このまま大人になった二人の話をオフで出していますので、そちらも読んで頂けると嬉しいです。