引っ越しの日



「荷物はこれで全部?」
「ああ」
 細々したものをまとめて放り込んだスポーツバッグを後部座席に置き、裕太は助手席に乗り込もうとした。
「じゃあ後は裕太を積んだら終わりだね」
「なに馬鹿言ってるんだ」
 兄はどうやらはしゃいでいるらしく、さっきから浮かれたようなことばかり言っている。それがなんだか気恥ずかしい。
「車出すよ」
 裕太が助手席に座るとすぐに車は走り出し、高校を卒業して戻ってきてから一年しか住むことのなかった実家はあっという間に遠ざかっていった。

             ※   ※   ※

 兄がなんだかんだと話しかけてくるのを無視して、裕太は流れ行く景色を見ていた。
(そういえば……)
 裕太はふと妙なことを思いつき、隣にいる兄の顔を見た。
(でも……なぁ)
「どうかした?」
「なんでもねぇ」
 兄には相談できない。しかしどうしたらいいのだろう。一度気になると、そのことが気になって仕方がなくなってきた。
(どうしようか……)
 これから引っ越す場所で、自分はどうするのがいいのだろう。もしかすると………
(すっげぇ考えたくねぇ)
 これから越してゆく場所で、裕太は恋人と二人で暮らす。
 裕太の恋人には羞恥心や常識というものが欠けているので、二人暮らしとなると色々と、きっと色々と………色んなことが………
(本気で考えたくねぇな)
 今までだって結構すごかったのに、二人暮らしとなったら、きっと恋人は躊躇しないだろう。
「どうしたの、裕太?」
「兄貴さ、田中とか佐藤とかってどう思う?」
「ごめん、裕太。まったく意味がわからないんだけど…」
 説明するのも嫌で、裕太はまた黙り込んだ。

 もしも、もしも………だ。もしも、恋人がそういう態度をとるとして、それが近所の人に見つかってしまったりとか、そういうことになってしまったりしたら、いったいどうしたらいいのだろう。
 裕太がこれから共に暮らす相手は、あまり世間に胸を張って恋人だと紹介できるような相手ではない。
 まず同性だ。でも、それはとても些細なことに感じられる。本当は大変なのだろうけど、今の世の中、趣味嗜好の問題ですむ話といえないこともない。
 それよりなにより一番の問題は………
「もうすぐつくよ」
 兄は―――裕太の恋人は、甘ったるい声でそう言ってきた。
 問題は恋人が男だということではなくて、恋人が兄だということなのだ。それだけは誰にも知られてはいけない。
 兄弟で恋人同士なのだと知られるぐらいなら、いっそ同性で恋人同士だと思われる方がましだ。いや、どちらも知られたくはないが、どちらがましだと言ったら同性の方だろう。
(やっぱり佐藤、いや田中……)
「裕太」
 信号が赤になって、車が止まった。
「裕太、もしかしてさっきの田中とか佐藤とかって、その名字をどう思うかっていう意味?」
 ほとんど独り言のようなものだったから、改めてそう聞かれてもうまく答えられない。
「………っていうか…」
「マンションに住んでる人ってね、裕太が思うより同じマンションで暮らす人に関心はないよ」
「え?」
「だから僕たちが兄弟だとかどうとか、誰もあんまり気にしないんじゃないかな」
「なんだよ、いきなり」
「いきなりじゃないよね。裕太、もしかして、佐藤とか田中とか―――そういう名字を表札に出した方がいいんじゃないかって思ったんじゃない?」
「う………」
 ずばり言い当てられて、裕太はうろたえた。
 裕太は兄が今まで一人で暮らしていたマンションに引っ越していく。
 もしかして、そこでは自分たちは兄弟だと言わない方がいいのではないか。そうすれば万が一何か見つかってしまったとしても、言い逃れができる。
 兄弟ではなく、ただの同居人。たとえば他の名字をレターボックスにでも出して、同じマンションの人達にそう思ってもらった方がいいかもしれない。裕太はふとそう思いついたのだった。
「そういうことは考えたことがなかったな。でもそれってつまり裕太が恋人として同棲しようとしてくれてるってことだもんね。すごく嬉しいよ」
「そういう意味じゃねぇよ!」
 どうしてこの兄は自分の都合の良いようにばかり話を持っていくのだろうか。自分はただ見つかった時のことを考えただけなのに。
「大丈夫だよ。さすがに自重するし」
「………本当かよ」
「だってこれからは家に帰ればずっと二人きりなんだから。我慢できるんじゃないかな………多分ね」
「多分じゃ駄目だろ」
「かなり仲がいい兄弟くらいで止めとくようにするよ。裕太が佐藤だの田中だの言い出して、僕をお兄ちゃんって呼んでくれなくなったら嫌だしね」
「元々呼んでないだろ」
「まあ周ちゃんって呼んでもいいけどね」
「馬鹿か」
 そんなことを話しているうちに、車はマンションの駐車場に入っていった。
「降りて。あと、これ裕太のだから」
 裕太の手の中に真新しい鍵が置かれた。これからこれが自分の家の鍵になるのだ。
「持ってる」
 兄がマンションで暮らし始めたとき、鍵をもらった。裕太は今もらった鍵をいったん兄に押しつけて、元々持っていた鍵を取り出して見せた。
「まあ、気持ちの問題かな。それに、ここはもう裕太の家なんだから、鍵を二つ持ってた方がいいだろうしね。そっちは保存用にしといたら?」
 兄はそう言ってもう一度裕太に鍵を渡した。その真新しい鍵にはなんだか高そうなキーホルダーまでついている。
「こういう無駄なことするんじゃねぇよ」
「僕にとっては全然無駄じゃないよ」
 兄はそう言ってにっこりと笑った。
「………………ありがと」
 裕太は憮然とした態度をとって、それでも小さな声でそう言った。
「どういたしまして」
 エレベーターを降りて少し歩き、部屋の前についた。今まで何度となく訪れたこの場所がこれからは自分の家になるのだ。裕太はなんとなく不思議な気がした。
「おかえり…って言うのはまだ早いかな」
 しかし、兄が幸せそうな顔で笑いながらそう言ってきたので、裕太は安心した。別に何が変わるわけでもないのだ。
「まだ住んでねぇだろ」
「じゃあ、いらっしゃい、かな。でも今から一緒に住むのにそう言うのもおかしいね―――ああ、そうだ」
「なんだよ」
「これからよろしくね。裕太と一緒に暮らせることになってすごく嬉しい」
 本当に嬉しそうな顔でそう言われ、裕太はどうしていいのかわからなくなった。
「んなことより早く開けろ」
 赤くなった顔を見られたくなくて、裕太は顔を伏せてそう言った。
「田中よりは佐藤かな」
「なんだよ」
「いや、やっぱりちょっとここで抱きしめない自信がないかなって思って」
「馬鹿か」
「冗談だよ。早く中に入ろう。焦らなくても中に入ればいいんだよね。僕たちの家なんだから」
 そして兄は扉を開け、抱き込むようにして裕太を部屋の中に導いた。

 

 


こういうちょこっとしたネタのSSをちょこちょこいじり回すのが結構好きです(大ネタをどどーん!っていうのもかなり好きですが(笑))。この話はかなり時間をかけてゆっくりいじり回しました(その割に完成度がアレですけど)。とても楽しかったです♪