第11課 救いの確信
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※暗唱聖句 | |
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
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教会学校の子どもたちは、結構長く教会に来て、聖書のお話を聞き、お祈りもしています。しかし、夏のキャンプで「みんなの中で、今日死んでも天国へ、入ることができると思う人、手を上げてください。」と尋ねますと、みんなもじもじして中々手が上がりません。おそるおそる手を上げて、また引っ込める子もいます。やっと何人かは手を上げても、その子たちも自信なさそうです。
子どもたちだけではなく、大人たちももうわかっているし、信じてもいるのに「私は天国に行けます。」とはっきり確信を持って言える人は、案外少ないのです。救いの確信を持てない人は、だいたい2種類あります。
- 行ないによって救いの確信を得ようとする人々。
こういう人々は「自分はまだまだやってはならないことをやってしまうし、やるべきこともやれないし、これではまだ・・・」と思っています。そしてもっと良い行ないができるようにと、努めています。それは、自分の行ないによって、救いの確信を得ようとしているのです。人間が作った多くの宗教、特に異端は、みな行ないによって救いを得ようとしています。
※御本尊を買うことよって
※念仏をとなえることよって
※壷や石を買うことによって
※合同結婚式によって
※どれだけ多くの勧誘をしたかによって
しかし、人間は救いを与えようとして来られた神さまの御子キリストさまが、私の身代わりとなって十字架にかかり、そして死を滅ぼして復活されたという、神の側で完全に成し遂げてくださった、救済の事実によってのみ救われるのです。
人間の側で言うなら、その十字架と復活を信じる信仰によってのみ、救われるのです。
- 感情によって救いの確信を得ようとする人々。
別な人々は救いの確信を感情的なものと考えています。
「信じたらすっきりし、心が軽くなった。」
「胸が感謝で熱くなり、涙がこぼれた。」
「天から光が注がれるように感じた。」
こう感じて救われたと思おうとしています。ある人々は自分には未だそういうものがないから、救われていないと思います。
しかし、気をつけてください。感情は上がったりくだがったりします。ある時は、天にものぼるような感情の高まりで「救われた」と思っても、感情が下がると「あれ、おかしいな。救われたと思ったのは気の迷いだったかな」と不安になるのです。
こういう方々は、救われたことを感じようとしておられます。信じるということと感じるということとを取り違えています。「信じる」とはどう言うことであったかは、前課で学んだので良くおわかりと思います。
ですから救いの確信を、このような感情の上に置いている人は、波のように動揺して、その信仰生活は安定性がありません。
では、救いの確信の土台を、何の上に置くべきでしょうか。天国に入れるという救いの確信は確固不動のものです。
- の根拠はみことばである。
それを保証するものは、決して行為や感情といった、人間の側の何かではなく神さまのことばです。神さまが保証してくださるということ以上の、確実な保証はありません。
神さまはうそをつかれません。神さまの間違いのない約束のみことば(聖書)によってのみ、救いの確信は得ることができるのです。
暗唱聖句をもう一度告白しましょう。
この「持つ」というのは「信じる」ということです。「信じる」というのは
前課で学んだように、「知る」ということでもあります。人格的に知って、信頼し受け入れることです。あなたは神の御子イエスさまを頭ででなく、心に信じ、受け入れておりますか。あるいは今、受け入れますか。もしそうならあなたは永遠のいのちを持っているのです。みことばがそれを保証しています。「者」というところに自分の名前を入れて読んでみてください。
に次の13節も読んでみてください。「あなたがた」というところに自分の名前を入れて、ゆっくりと味わって、告白してみてください。祈り心をもって、何回でも告白すれば、聖霊が働いてくださり、救いの確信が持てない人はないはずです。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)
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