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第10課  信じるとは

※暗唱聖句
 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネ1:12

 教会で一番多く聞かれ、また使われていることばは「信じる」ということばです。信じなければ救われません。信じなければ世に勝てません。ですから「信じる」ということはクリスチャンになってからも、最も大切なことです。しかし「信じる」というのは簡単なようで、実際にはどういうことか、つかみにくいという人があります。そこで、「信じる」とはどういうことか、もう一度考えてみましょう。

 何でも信じさえすればいい。「いわしの頭も信心から」、「狐のしっぽも信心から」と言うような言い方をよく聞きます。しかし、いわしの頭や狐のしっぽを信じて何になるのでしょう。

  1. 正しい事実の認識。

     キリスト教は「信じる」ということを強調しますが、それは何でもかんでも、いい加減な事でもうのみにして信じろと言っているのではないのです。どこまでも正しい事実に立っているのです。しかもそれを正しく認識することから信仰は始まります。

     これがないために、はたから見てもばからしいことを信じてだまされている新興宗教の信者が多いのです。では、認めるべき正しい事実とは何でしょう。

     (1)「罪」という事実

     どんな厚顔無恥な人でも「私には罪がない」と言える人はひとりもいないということです。この「罪」の事実がなければ罪からの救い主、キリストを信じる必要はないのです。信仰は罪という事実の認識とそこからは自分では救えないという事実を正しく認識することから始まるのです。

     (2)「死」という事実

     罪の結果は死です。それは具体的にも、霊的にも、永遠的な意味においてもです。

     だれにも死がやってくるということは観念ではありません。厳然たる事実です。

     これが事実でなければキリストを信じる必要などありません。なぜならキリストこそ、この死の解決者であるからです。

     (3)キリストの十字架と復活の事実

     キリストの十字架と復活は、人間の罪と死の事実から来る愛の神さまの必然ということができます。なぜなら人間の罪を解決するためにキリストの十字架が、死を解決するために復活が不可欠なものであったからです。その意味でもキリストの十字架と復活は単なる教えとか神学でなく、事実でなければなりません。まさしく、十字架と復活は世界史を2分する歴史の事実でした。

     私たちの信仰は、自分の感情や、観念より作り上げた教えや教理の上に立っているのではありません。あくまでも神さまとキリストが成し遂げてくださった、十字架と復活という贖いの事実の上に立っているのです。

     以上のように正しい信仰には、まず第1に正しい事実、そして次にそれに対する正しい認識が必要です。ただこの認識は、頭脳による認識だけでなく、神さまの前にありのまま出ての魂での認識でなければなりません。「人間は罪人」という一般的な事柄を認めるのは頭でもできるでしょう。しかし、「自分は罪人」ということを認めるには神さまの御前に1対1で出なければ決してできるものではありません。

     ですから次のことばは大切です。

     「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

     ここで使われている「知る」ということばは、ただ頭で受入れるということではありません。「交わる」というもっと深い意味をもったことばです。ですから、神さまの前で、神さまとの人格的な交わりの中で、これら3つの事実を受入れるのです。このときこの「知る」は「信ずる」と同義語になってきます。これは正しく事実を知ることは信じることにつながっていることをあらわしています。そこで「正しい事実の認識」の次に大切なのは信じ受入れることです。

  2. 信じ受入れる。

     「この方を受入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

     ここでは「受け入れる」ことは「信じる」ことと同じだと言っています。確かに、食べ物を体内に受け入れるのは、それが食べられると信じなければできないことです。初めて入った食堂でどんな人が作ったかも知らないのに、平気で信じて食べてしまいます。

     だとしたら、どうしてこれほどまでに私たちを愛してくださる神さまの子イエス・キリストさまを心の中に受入れられないなとということがあってよいものでしょうか。イエスさまはご自分をいいのちのパンになぞらえて、こう言われました。

     「だれでもこのパンを食べるなら永遠に生きます。」(ヨハネ6:51)

     イエスさまは、はっきりと「信じる」ということを「食べる」という信頼して内側に受け入れる行為として示しておられます。

     食べるというのは簡単なことでだれでもできます。しかし料理を作るのは大変です。子どものころ、料理があまり上手ではない母はよく言いました。

     「たかし、食べる時はね、感謝して食べてよ。10分くらいでさらさら食べているけど、母ちゃんこれ作るのに大変なんだだから。栄養を考えて、買い出しに行って、美味しく料理して、何時間もかけているんだからね!」

     しかし、どんなに時間をかけ、愛情いっぱいに作ってくれたごちそうでも、食べないことには何の足しにもなりません。神さまは、私たちに何千年もかけて、ついにはひとり子イエス・キリストをおくって、十字架につけてまで、私たちのために世界最高の愛のごちそうを、いのちの糧を作ってくださいました。私たちが永遠に生きるためのすべての用意をしてくださいました。私たちのすることは簡単です。食べるだけ、信じて受け入れるだけです。

 いかがでしょう。「信じる」というのは難しいことでしょうか。「信じる」とはまずはっきりしている事実を、そのまま認めることから始ります。次に「信じる」というのはただ、頭でその事実を受入れるだけではなくて、私を愛してくださったこの方を信頼して、心の中に感謝して受入れることなのです素直に心を開くだけなのです。ごく簡単な事です。

 そのときあなたは罪を赦され、永遠のいのちを与えられ、神の子とされ、キリストとともに生きるすばらしい生涯が始まるのです。

 中には「それではあまりに単純すぎます。全部わからなければ、とても信じることはできません。」と言われる人もあります。しかし本来「信じる」ということは単純な行為です。飛行機がどういう機能をもって飛ぶか、全部わかって乗っている人がいるでしょうか。ただ単純に信じて乗るだけでアメリカへでも、どこへでも行くことができます。しかし、その影には積み重ねられてきた数え切れない犠牲、近代ハイテク科学の集約綿密な整備、複雑な空の管制業務など私たちでは考えられない複雑な働きがあるのです。

 信じさえすれば救われるというのもこれに似ています。私たちは何のわざもしなくてもその代わり、神さまの側で最大の犠牲を払い、贖いの大事業を十字架上で完成してくださったのです。私たちがどんなにガンばって努力してもアメリカに飛んでいくことはできないように、私たちのどんな行ないによっても、死からいのちの世界に飛んでいくことはできません。でも神さまの方で払ってくださった大きな犠牲のゆえに、だまって信じて乗るだけで向こう側へ行くことができるのです。

 ☆暗唱聖句の「人々」のところに自分の名前を入れていっしょに告白し「信じる」ことの幸いを味わう者となりましょう。そのあとでいっしょに祈りましょう。


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