十字架は神の義と神の愛のドッキングです。
神さまは何よりも、まず義なる神さまです。正義の神さまです。人間の正義は得てして相対的です。もっと言えばいいかげんです。
・くさいものにはふたをします。
・身内のことなら伏せて秘密のうちに処理します。
しかし、神の正義は絶対不変です。白黒をはっきりさせなければなりません。どんな小さな罪も、神の正義の前には罪は罪としてさばかれなければなりません。聖なる神の義によって私たちがさばかれるとしたら前課でも学んだように天国に入れる人など、この地上にひとりとしているはずがありません。私たちはみな永遠の滅びです。義なる神さまは私たちをさばかないではおられないのです。
しかし、それではもう一方の神さまのご性質、「神の愛」が成り立ちません。愛なる神さまは私たちを赦して、あの恐ろしい永遠の滅びから、ひとりも残さず救わないではおられないのです。
この永遠の矛盾、「神の義」と「神の愛」を調和させる道があるのでしょうか。神さまの義と神さまの愛が結びついて同時に働き、同時に生かされて、そして人類が救われる道。このような不可能な道を神さまは苦悩の中から実現されました。それはただ1つの道しかありませんでした。御ひとり子イエス・キリストをこの地上に送り、私たちの身代わりとなって罪のさばきを受けさせることでした。
「お父さん、私が身代わりの犠牲者になります。私が全人類に代わって罪のさばきを受けます。そのために私が人間となって地球へ行きます。」
子なる神、イエス・キリストがこうして地上へ来られたのです。そして33年の生涯のあと、十字架にかかり、私たちの身代わりの犠牲となって、罪の刑罰を全部受けてくださったのです。
アメリカのよき時代。ある地方都市で、ひとりの男が法廷で裁かれた。
ところがさばく裁判官が幼なじみの親友。町中の人が押し寄せて、どのような判決をくだすか、かたずをのんだ。ところが、判決は最も厳しいものであった。男は立ち上がり、「お前なんか、親友なんかじゃねえ、この情け知らず!」と思い切りののしった。しかし、裁判が終わったとき、裁判官は法衣を脱ぎ、男に近づき、「私は家と土地を売ってあなたのすべての罰金を支払いました。もうあなたは自由です。」と優しく語った。
男の目には涙が光った。
「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」−前課の暗唱聖句−
罪の代価は死です。イエスさまはあなたの代わりに十字架上でそれを払って、あなたにいのちを、赦しを、そして自由を与えでくださったのです。
私たちはカルバリーの十字架を仰ぎ見るごとに、神がそのひとり子をすらも十字架につけなければならなかったほどの自分の罪の深さを、そこに見るのです。また、神さまの義の厳しさを見るのです。
また一方、ひとり子すらも十字架につけて犠牲にしてくださるほどまでの神さまの愛の大きさを、そこに見るのです。
「神の義」という神さまと人間のとの断絶を示す横の直線は「神の愛」を示す縦の直線によって打ち破られたのです。それが十字架です。
そこに「神の義」も「神の愛」も両方とも達成されたのです。人間の論理では到底不可能な「神の義」と「神の愛」が十字架によってドッキングしたのです。
「十字架は私のため」と、十字架を信じる私たちに神の義も神の愛も両方とも与えられるのです。その時、「神の義」はもはや私たちを徹底的にさばく厳しい義、攻撃的な義ではなく、信じる者を義とする義、信じる者に無罪の宣告を与える、やさしい義、私たちを受け入れる義となります。
行為による自分の義(己が義)は苦しく、完全に至ることはありません。しかし信仰による神の義は何とやさしく、完全で、平安でしょう。
ハレルヤ!神さまの恵みを感謝します。
BC660年頃。ロクレシャンの王、ザルーシャスは国民がみだらな生活に陥り、不義の罪を犯す者が続出するので、憂えた末、禁令を発布した。「今後、男女の間を乱す者は容赦なくその両眼をえぐり取るべし。」と。恐れた民衆はしばらくその行為を慎んだが、また乱れ始めた。そして、最初の犯人があがった。激怒した王は真っ赤になって、「その不届き者はだれか」とたずねた。あにはからんや、大切な王子であった。たいへん苦悩したが法の義を破ることはできない。かといって我が子の両眼をえぐるはしのびない。法の義と愛の板ばさみになって、まわりのものが見るも気の毒であった。王は意を決し、「第1犯人の処罰を執行せよ。」と命じた。王子は手術台にのせられた。
命令とはいえ手術刀を持つ医師の手はふるえた。王は「何をちゅうちょるか。早くえぐり出せ。」と厳命した。やむを得ず医師は王子の右眼をえぐり出した。この時、王は「もうそれで赦してやれ。左の眼は余の眼をえぐり出せ。」と言った。まわりの者がお止めするのを聞き給わず。医師は涙をのんで左の眼をえぐり取った。片目になった王とその傷を見た一同は、ただ頭を下げ、両眼からは涙が出るばかりであった。このことが全国民に知れ渡ったとき、「ああ、私たちの不義の行ないが王の眼をえぐり出したのだ」と言わぬ者はなかった。その時以来罪はやんだ。