今日の聖句7月19日(月) 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあっ た。そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け 出してください。」 詩篇116:3-4 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる 方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその 敬虔のゆえに聞き入れられました。 ヘブル5:7 ***************************** ヨハネの福音書19章17節18節 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「ど くろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。彼 らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者 をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。 「ご自分で十字架を負って」 イエス様はご自身で十字架を背負って処刑場へ向かって歩いて行かれました。 イエス様がご自分の贖いの死を、ご自身みずから、自発的にご自分だけで果た された、ということを証ししています。「わたしが自分からいのちを捨てるの です。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があり ます。」(ヨハネ10:18)と語っておられる通りなのです。 この福音書が書かれた頃には、既にグノーシス主義という異端がはびこり「キ リストはクレネのシモンの姿に変わって、自分は傍らに立って笑っていた。」 と教えていました。これは事実ではありません。誤解が無いように、ヨハネは イエス様が自分で選んだ十字架の道を自分で十字架を背負って歩かれたことを しっかり証言したのです。 この福音書が書かれた頃のもう一つの背景には、ユダヤ教会に創世記22章の 神様の命令でアブラハムがイサクを犠牲にする記事について、イサクが自分で たきぎを背負ってモリヤの山へ登っていった、と、みずから進んで死に行く少 年として語っていたという事です。ユダヤ教のラビはイサクの犠牲は出エジプ トのとき、鴨居に塗られた羊の血を予表するものだと教えていたようです。 人々は、イエス様がこの場面で自分で十字架の木を背負って自分が死ぬ事にな るゴルゴダへ歩く姿に、モリヤの山へ木を担いで登るイサクの姿を重ねてみて いたのかも知れません。この受難は私のためであり、私たちのためのイエス様 の苦しみであったのです。カルバリーの十字架わがためなり、です。 祝福を祈ります。