今日の聖句6月6日(日) 幸いなことよ。さばきを守り、正義を常に行う人々は。 詩篇106:3 わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前で その人を認めます。 マタイ10:32 **************************** ヨハネの福音書9章39節40節41節 イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目 の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサ イ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。 「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが 盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがた は今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」 「見える人、見えない人」 当時、パリサイ人たちは一般のユダヤ教庶民の「盲人の手引き、闇にいる者の 光、愚かな者の導き手、幼子の教師」と自負していました。39節はそのよう に見えるといっている人が、実は見えない盲人であるという実態を暴露するた めにキリストは天から降ったのだということを言っています。 これはパリサイ人たちには聞き捨てならないことなので「私たちも盲目なので すか」と食ってかかりました。イエス様は彼らに「盲目ではありません。盲目 でないから盲目であるよりもっと罪が重い。」と答えられました。『私たちは 目が見える』と言って目の前にいるキリストを否定し、庶民に対してキリスト を隠している大きな罪があるのだと指摘しました。 せっかく盲人の目を開くという鮮やかな神わざを見ながらキリストを否定する 罪は決して赦されないと仰っているのです。キリストのわざを見て、アーメン と言えることが大切です。聖書を読んでアーメンと言える人はキリストの愛の 中にいます。しかし、反キリストの立場にいる人は御わざを見てもなお悪魔だ と言い、聖書を読んでも聖書は間違っていると言い張るのです。 私はあるギデオン会員から「濱野先生は初めて聖書を読んだときどんな印象を 持ちましたか。」と聞かれたことがあります。「違和感はありませんでした。 面白いと思って読みました」と答えたことを思い出します。興味深く聖書を読 めること、キリストの言葉を楽しく聞けると言うことは本当に幸せなことだと 思います。今日は日曜日。良い礼拝が捧げられますように。 祝福を祈ります。