今日の聖句5月12日(水) モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしている のか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分 の霊を与えられるとよいのに。」 民数記11:29 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしな いのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのから だであり、ひとりひとり互いに器官なのです。 ローマ12:4-5 ************************** ヨハネの福音書5章39節 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べ ています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 「イエス様と聖書」 聖書とはそもそもイエス様を言い表す書物です。聖書はどこを切っても イエス様の真っ赤な血が流れると言い放った人もいるそうです。信仰の 父アブラハムもエジプトの宰相ヨセフも、ダビデ王もイエス・キリスト を予表する型でした。 出エジプトも、バビロンからの帰還も悪と罪の奴隷になった人が、イエ ス様によって神様の前に立ち返ることの予表であり型でした。「聖書が、 わたしについて証言しているのです。」というみことばは、私たちの聖書 に向かう心と目を決定的にイエス様に釘付けます。 みことばを色紙や短冊に書いて壁に掛けたり飾ったりしますが、未信者 が神社や寺院の配るお札を拝んだり魔除けにするのとは違います。みこ とばによって心をイエス様に向けるためです。みことばは私たちと私た ちの心をイエス様に向けさせるのです。ディボーションはみことばによ ってイエス様を見、イエス様を知る礼拝です。 私たちがイエス様を信じて聖書を読むと、聖書のみことばは私たちの心 を吟味し、心の中を照らし、罪を指摘し、素直な心で悔い改める思いを 起こさせるものです。イエス様を拒否して聖書を読んでも聖書の真の意 味を理解することはできないのです。 祝福を祈ります。