今日の聖句4月22日(木) 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のう ちにある。 詩篇62:7 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた 人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり 建てられていたから、びくともしませんでした。 ルカ6:48 ***************************** ヨハネの福音書2章23節24節25節 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、 イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を 彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられ たからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられ たので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。 「任せられるか」 イエス様の教えとイエス様のなさった多くのしるしを見て多くの人々がイエス 様を信じました。しかし、イエス様の方ではその信じた人たちの信仰を信頼し なかったというのです。その理由は、イエス様は「人のうちにあるものを知っ ておられた」からだということです。 この23.24.25の三節はイエス様という御方は「人の心を知る。」という神様に だけしかできないことをなされる全知全能の神様だということを強く述べてい ます。「信じます」と口先だけで言うなら、それが自分の都合と勝手によるこ とだと見抜いておられるというのです。 逆に心がみられるということは、私たちの行いがお粗末でも、神様に対する心 が純粋なら、その純粋な心を認めてくださるということでもあります。仕事を 上手にそつなくこなしても、十字架を背負ってキリストに従っていく心がない ならば、イエス様はそういう人には自分を任せることはできないといわれてい るわけです。グズでも下手でも謙遜に従う人にご自分を任せてくださいます。 私たちは信仰をささげます。礼拝をささげます。自分自身をもささげます。そ のささげている私たちをイエス様が受け取ってくださるかどうか、をも考える 必要があります。キリストを信じた人はキリストに受け入れてもらえるような 信者になるように訓練を受け、成長していく必要があります。 祝福を祈ります。 http://www.sam.hi-ho.ne.jp/hamano