今日の聖句10月23日(土) 見よ。神が打ちこわすと、それは二度と建て直せない。人を閉じ込めると、それ はあけられない。 ヨブ12:14 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、 たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる 神なのです。 1コリ3:6-7 ***************************** コリント人への手紙第一13章1節2節 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましい どらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持ってお り、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な 信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 「神の愛」 ここに書かれている「愛」という言葉はギリシャ語でアガペーという単語が用い られており、それは「神の愛」「神からの愛」「無条件の愛」と考えると理解し やすいかもしれません。私たちの存在の中に「神からの愛」が加えられることで、 「語る言葉」に意味あるものとなり、知識を持っていることが意味あるものとな り、また、それがあれば奉仕活動が麗しいものとなるのです。 それらの行為に神の愛がないとすれば、説教も、賜物や知識も、自己宣伝、自己 誇示の道具にしかなりません。それは、神を喜ばせるものにはなりません。慈善 活動や殉教でさえ、そこに神の愛がなければ、自己実現の道具となり、神様にと っては無益なものになってしまうのです。つまり、愛がなければ、神の心にかな うことができないのです。 どんなに良いことをしていても、神の愛を受けてそれを実行していなければ、神 の期待に応えることができていないのです。前の章で賜物について語っていまし たが、賜物や能力を磨き、それを用いて、有効活用することだけを目的にしてし まうと、いつの間にか味気のない、競争と表面的な作業だけが残ります。 本来、賜物は「恵み」を表明するもの、神の愛が伝えられるようにと与えられた ものなのです。ですから、神の愛が日常生活の中にしっかり経験されることによ ってのみ、賜物を神の愛を分かち合うために用いることができるようになるので す。「神様の愛で私を包んでください」これが今朝の私の祈りです。 祝福を祈ります。