今日の聖句4月5日(土)\(^o^)/ 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。 1サムエル2:7 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。 ローマ12:3 ************* 今週のテーマ:悔い改めへの招き きょうの聖書:2コリント7:5-10 コリント人への手紙第二7章8節9節10節 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 「罪と悲しみ」 あの手紙とはコリント人への手紙第一を指しています。パウロはコリント教会の信仰の状態が悪いことを悲しみ、手紙の中で厳しく指導しました。信者たちを悲しませてしまったのかと心配していたのですが、テトスからコリント教会が悔い改めたという知らせを聞いて大いに慰められ、喜んでいるのです。 そもそも悔い改めとは自分の犯した罪によって苦しみ、そして悲しむところから始まります。それが神様に近づくはじめの一歩になるのです。ですから罪のための悲しみは神様のみこころにかなった悲しみなのです。罪を犯して自慢する人は神様に遠いのです。 罪を悲しむとは、その行いも自分の生き方も神様への反逆であったことを認めた結果です。この世の悲しみとは神様とは無関係で何らかの大事にしていた人や物を失ったり、自分の立場を失った時の悲しみです。そこには神様に対する悔い改めは生じません。 この世の中には罪の結果を憂い悲しむ人は多いのですが、罪が神様への反逆だったと知って悲しむ人は少ないのです。私たちは罪が、損害や苦痛を与えるからではなく、神様を悲しませるから悔い改めるのです。信仰は神様に対する者でありむ、同じく罪も神様に対するものなのです。これをわきまえて罪を捨てなければなりません。 祝福を祈ります。