今日の聖句3月19日(水)\(^o^)/ ヨブは主に答えた。ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。 ヨブ40:3-4 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 1コリント13:12 ************* 今週のテーマ:試練の道 きょうの聖書:マタイ5:11-12 マタイの福音書5章11節12節 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。 「迫害の受け止め」 ク-スチャンが受ける迫害には三つの側面があります。一つは、正しい意味でこの世から受ける迫害は喜ばしいことです。二つは、間違った意味で受ける迫害は塩が塩気を失ったために受ける迫害で、自分が正しくないからです。三つは、クリスチャンが正しく生きて受ける迫害は、天の父が崇められるようになるのです。 喜ぶべき迫害は義のために受ける迫害であり、御父が崇められる迫害です。信仰のために受ける迫害です。清く正しい生活をし、忍耐深く生きていながら未信者の誤解によって受ける迫害のことです。日本でも80年ほど前に軍事政府による大弾圧がありました。それは何の罪も犯していない人に対してクリスチャンであるという理由での弾圧でした。 喜ぶべき理由は、迫害され弾圧される人は、きよく正しい生き方をしていることが迫害の理由だからです。迫害されているということはクリスチャンとしての品位が備わった証拠なのです。クリスチャンであっても不正な生活をしている人には迫害や弾圧の手は伸びてきません、サタンも相手にしないのです。 今私たちは迫害という言葉よりも弾圧ということばを多く使っています。迫害は一般市民からクリスチャンが迫害されることですが、日本では各時代に政府による弾圧を受けてきたためです。迫害や弾圧は何時の時代にも起こることでキリスト教信仰とは切り離せない問題です。自分が弾圧されてもそれを受け止める信仰を備えていたいと思います。 祝福を祈ります。