今日の聖句2月23日(日)\(^o^)/ わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。 ゼカリヤ9:8 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」 ルカ 8:25 ************* 今週のテーマ:しもべの道 きょうの聖書:ピリピ2:6-13 ピリピ人への手紙2章6節〜9節 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。 「しもべの姿」 私たちはこの手紙を読むと単純に、私たちの罪を担って十字架にかけられた苦難のイエス様を連想します。しかし、そこにある意味での落とし穴があるように感じます。というのはイエス様の犠牲や苦難は「十字架」というポイントだけではなく生き方そのもの、存在そのものが、まったく当然とは言えない状況に身を置いたからです。 「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず」という点です。本来このお方は神様の御子ですから、その主張をどこで表明してもよかったのです。しかし、イエス様はそれをしませんでした。むしろ、しもべの身分となりました。つまり、親から切り離され、あるいは親を切り離した罪あるものの一人として神様の前に立ったのです。 私たちクリスチャンが一生涯追求し、祈り求めていくテーマがここにあります。謙遜と従順です。イエス様は御父に対して謙遜と従順の極みを尽くした方でした。私たちがイエス様に見倣って生きるとするならば決して見落としてはならない大きな模範です。 私たちは自分が損をすることがとても嫌です。侮辱されることや名誉を奪われることは絶えられません。しかし、イエス様は神様への愛と、私たち罪びとの救いのためにご自分が持っていた尊いものを捨てて、救い主としてのすべての働きを完全遂行してくださったのです。今日の礼拝ではこのことを感謝して御名を崇めたいと思います。 祝福を祈ります。