今日の聖句12月21日(土)\(^o^)/ 私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。 詩篇84:3 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。 ルカ1:44 ************* 今週のテーマ:栄光の主の審判 きょうの聖書:2テモテ4:5-8 テモテへの手紙第一6節7節8節 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。 「主の審判」 パウロはこの手紙をローマの獄中で書きました。パウロは自分の死が間近に迫っていることを予期しています。ローマのネロ皇帝から死刑の判決を受けていたのです。パウロは十分に伝道し、思い残すことはありませんでした。しかも天に召されれば主キリストから栄冠を受けられる望みで心は満たされています。 パウロの信仰は、イエス・キリストは神様の御子であり、全世界の救い主であり、また、審判者であるという確信に在ります。特に審判者であるキリストにすべての審判を委ねています。他人を裁くことも、自分で自分を裁くこともしません。裁きは主のものだからです。ネロの審判はパウロの魂を拘束できないのです。 審判とは有罪か無罪かを判定することです。人間の行動は一面的でなく、複雑な側面を何重にも持っいていますので、人が人を裁くことも、自分で自噴を裁くこともとても危険なのです。それで聖書は繰り返し「裁いてはいけない」と教え続けています。 ユダの手紙9節に「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ『主がおまえをとがめてくださるように』と言いました」という記事があります。天使長でさえ審判はしないということです。 祝福を祈ります。