今日の聖句8月29日(木)\(^o^)/ 烏に餌を備えるのはだれか。烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようときに。 ヨブ38:41 大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 1コリント3:7 ************* 今週のテーマ:恵に強められる きょうの聖書:哀歌3:25-33 哀歌3章25節〜31節 主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い。人が、若いときに、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。 「見放さない」 エルサレムはバビロニヤに攻め滅ぼされ瓦礫の山になってしまいました。民はバビロンへ連行され奴隷状態に落とされてしまいました。すべてエルサレムが偶像を礼拝し、神様に敵対したからです。エレミヤは破壊されたエルサレムに座り込んで哀しみの歌を歌いました。 しかし、そこには神様の慰めとと励ましがあります。22節では「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」と謳っています。国土を奪われ国王も失い、民は捕囚されていますが、エレミヤの目には神の民はいまだに神様の保護の中に在り、神様から捨てられたわけではないと映っているのです。 バビロン捕囚は世界史の中でも特別に厳しい出来事として扱われています。それなのにエレミヤは「人が、若いときに、くびきを負うのは良い」と言います。この患難はユダヤの人々にとって再起の機会とされるのだと理解しています。滅ぼされないより滅ぼされた方が良かったのだということです。 この捕囚の後、再び神様の愛の中に戻ると、ユダヤは滅ぼされる前よりも素晴らしい神の民として復活することができるという希望があるのです。今は神様から捨てられたような形ですが、神様は、いつまでも神の民を見放してはおられないという信仰の確信がエレミヤの心にあります。神様は私たちを見放しません。 祝福を祈ります。