今日の聖句3月10日(日)\(^o^)/ わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。 イザヤ65:19 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。 黙示録7:17 ************ 今週のテーマ:新しい契約 きょうの聖書:ヘブル9:11-15 ヘブル人への手紙9章13節14節15節 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。 「良心のきよめ」 今の時代の私たちが考えると、動物の血や灰を注ぎかけると、すべてのものが汚れてしまうような気がしますが、古代のユダヤでは、神様に礼拝を献げるためには動物を犠牲にして罪を悔い改め、心をきよめられなければならないとされていました。また、動物犠牲そのものが礼拝であると定められていたのです。 それは、御子イエス・キリストの十字架による贖いを予表するものであり、キリストによる贖いをイスラエル人に理解させるためだったのです。旧い契約はモーセの律法を守ることによって救われるというものであり、新しい契約とは、イエス・キリストの十字架による贖いによって救われるという契約です。 古代の人々は動物を犠牲にすることによってきよめられると信じたのですが、もしそうならば、完全無欠な神様の御子イエス・キリストの犠牲によって全ての人がきよめられて神様にお仕えできるようになるのは当然なのだと訴えているのです。 きよめるとは、神様の所有にするという意味であり、きよめられるとは、神様の所有にされるということです。それは死と罪に隷属していた人が、罪と死の力から解放されて、愛といのちのキリストと一つにされて生きるようになるということです。それを約束しているのが新しい契約なのです。 祝福を祈ります。