今日の聖句2月16日(金)\(^o^)/ どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。 詩篇90:12 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 ローマ14:8 ************* 今週のテーマ:真の断食 きょうの聖書:ルカ18:9-14 ルカの福音書18章11節12節13節 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』 「断食より謙遜」 二人の人が神殿に来て肩を並べて立ち、祈りました。初めのパリサイ人は「悪を行ほわず、断食をし、十分の一を献げています」と言って自分の宗教的生き方を自慢して感謝しました。次の取税人はうつむいて「神様、罪人の私をあわれんでください」とだけ祈り、神様の憐れみを求めました。 この二人の様子をイエス様がご覧になって弟子たちに「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人(取税人)です」と言われました。パリサイ人の行為は立派なのですが、少しばかりの善行を自慢したのが良くないのです。盗まないとか、断食するとか献金するということは当たり前のことであって、わざわざ口に出すべきではありません。 しかし、自分の罪を深く認識して神様に対して謙遜になり、憐れみを求めるということはなかなか難しいことです。自分の罪を他の人に指摘されれば悔しく思いますし、かといって自分から進んで自分の罪を他の人に打ち明けることはできないからです。 義と認められる人は謙遜な人であり、他の人を赦す寛容な心を持つ人です。謙遜も度が過ぎると、遜り傲慢という罪に落ちます。大事なことは自分を大きく見せるのではなく、神様の御前で無力な子供であることを知ることです。何をしたとか、何ができるかではなく、キリストが自分に何をしてくれたのかをよく理解することです。 祝福を祈ります。