今日の聖句10月21日(土)\(^o^)/ 主を頼みとするその人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。 エレミヤ17:7-8-7 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 ガラテヤ5:22-23 ************* 今週のテーマ:献げる きょうの聖書:イザヤ1:11-17 イザヤ書1章15節16節17節 あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。 「身を清めよ」 イスラエルとユダ国の礼拝は動物を生贄にして火で焼きその煙を神様に献げるという形式でした。動物を犠牲にして神様を礼拝しても罪を犯し続けていては何の益もありません。罪を悔い改めて正しい生き方をする人が神様を礼拝するのでなければ信仰にも礼拝にも価値はないのです。 礼拝とは、神様のお姿を明瞭に仰ぎ見ることです。愛であり、善である神様がどのように立ち、どのようにふるまっているのかを見なければ礼拝になりません。聖書を読んで、御父である神様が何と言い、何をなさったか。新約聖書ではイエス様が何を語り、何をなさったのかを読み取り、そこから神様のイメージをいたただきます。 神様が罪を犯し、悪事を行った人に処罰を与え、愛と善を行った人に祝福を与えていることから、罪を悔い改め、悪から離れて生きていく道を選ばなければなりません。まず第一に嘘をつくことを止めることです。嘘は大罪です。自分の非を認めて神様に対して謝罪して赦されてでなければ礼拝は成立しません。 時代劇などで、泥棒が「おつとめ」に出る前にお稲荷さんで手を叩いている様子を見ることがありますが、うまく盗みができますようにと祈ってもその祈りが叶えられることはありません。イザヤはユダヤ人の祈りと礼拝はそのようなものだと言ったのです。神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。 祝福を祈ります。