今日の聖句8月31日(金)\(^o^)/ 民が願い求めると主はうずらをもたらしまた天からのパンで彼らを満ち足らせた。主が岩を開かれると水がほとばしり川となって砂漠を流れた。 詩篇105:40-41 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 マタイ6:11 ************* 今週のテーマ:主に従う きょうの聖書:1ヨハネ2:3-6 ヨハネの手紙第一2章4節5節6節 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。 「尊敬」 主に従うということは、神のことばを守るということだと教えられます。みことばを守り、みことばを実行して生きているなら、その人のうちに神の愛が確かに全うされていると言われています。イエス様が歩まれたように歩む人がクリスチャンなのです。イエス様は神様を愛し、人々を愛す人生を生きました。そこに在ったのは神様と人々への尊敬でした。 愛は赦しであり、愛は尊敬です。尊敬のないところには愛はありません。尊敬のないところには敵意と争いが起こります。私たちは罪びとであり罪にまみれた汚いものでしたが、その罪びとである私たちのいのちをイエス様は高く評価し、高く尊敬して、ご自分のいのちと引き換えに私たちの罪を赦し、私たちを御父と和解させてくださいました。 イエス様が歩まれたように歩むとは、罪を犯さずに生きるという意味もあります。イエス様の人生には全く罪がありませんでした。私たちがキリストに従って生きようと思うなら、絶対に罪は犯さないという決断が必要です。警察沙汰を起こさないというだけでなく、隣人の心に傷をつけないという決心です。イエス様は人を癒しはするけれど人の心に傷を与えることはしませんでした。 私たちが真のクリスチャンであるかどうかは、イエス様のように神様と人々に対して尊敬の気持ちを持ち続けているかどうかにかかります。自分を攻撃する人に対しても、その人のいのちと人生に高い値打ちがあることを認めることです。私たちが愛し合って生きるとはお互いに尊敬しあって生きていくことです。読者の皆様に敬意を表します。読んでくださってありがとうございます。 祝福を祈ります。