今日の聖句8月2日(水)\(^o^)/ 苦しみのうちから私は主を呼び求めた。主は答えて私を広やかな地へ導かれた。 詩篇118:5 私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。 2コリント1:7 ************* 今週のテーマ:滅びの中にも きょうの聖書:イザヤ5:1-7 イザヤ書5章2節3節 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。 「身を実らす枝」 ぶどう畑とはイスラエルのことです。彼とは、ぶどう畑の所有者である神様です。ぶどうという植物は鑑賞用にはならず、幹も木材としての価値はありません。刈り払われたぶどうの木は燃やされるだけです。ぶどうは人が果実を収穫するためだけの目的で栽培されます。 神様はエジプトで苦しむイスラエルを奇跡的手段で救出して、乳と密の流れる地と言われるカナンに定住させました。そのためには先住民が犠牲になっています。神様は農場主が良い実りを期待して良い苗を植え、畑に手を加え、肥しを与えて養うようにイスラエルに保護を与え、教育を施し、愛と事実をもって神に仕える国を作ろうとしました。 しかし、現実にはぶどうが毒気を持つ酸っぱいぶどうの実しか実らなかったように、神様にとって期待外れの神様を無視する国になってしまったのです。神様は「今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ」と言って、ぶどう畑が悪いのかぶどう畑の主人が悪いのか裁判せよと言い、イスラエルが悪いのか神様が悪いのか考えて見よと言っているのです。 私たちもイエス様からぶどうの木と呼ばれています。私たちにもクリスチャンとして良い実を結ぶ義務があります。私たちはぶどうの枝ですから、幹であるイエス様につながってさえいるならば必ず良い実が実ります。「枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ15:4)と言われているように、イエス様にとどまること、ただこれだけが私たちの責任なのです。 祝福を祈ります。