今日の聖句6月24日(土)\(^o^)/ 主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 ミカ6:8 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。 ピリピ2:5 ************ 今週のテーマ:信仰に生きる きょうの聖書:哀歌3:22-27 哀歌3章21節〜26節 「私は待ち望む。主の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い。 「復活への確信」 この22節の「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」というみことばは、文語聖書では「われらの尚ほろびざるはエホバの仁愛によりその憐憫の尽きざるに因る」とされています。昔、日本が大東亜戦争に負け、国が滅ぼされた時、私たち聖協団の先輩である牧師も信者もこのみことばに共感しました。 それは、このエレミヤのことばが北イスラエル王国がアッシリヤに攻め滅ぼされ、南ユダ王国がバビロニヤに滅ぼされた時のことばであるからです。神の民が偶像礼拝という罪のために滅びたのですが、その中でエレミヤは「私たちは滅び失せなかった」と言っているのです。 神の愛への絶対信頼であり、神様の救いへの絶対信頼があります。それがこの冒頭の「私は待ち望む。主の恵みを」ということばで表されています。「絶対」という言葉には良きにつけ、悪しきにつけという意味があります。国が栄えようが、国が滅びようがそのようなことには左右されることのない神の愛と神の憐れみに対する期待です。 私はこの言葉を千葉教会で谷中さかえ先生が指導した女性信者たちの祈祷会の中で学びました。その時は単に、今、生きていられるのは神様の憐れみのおかげだという意味で聞いていましたが、今は、たとえ国が滅びても神様は神の民にいのちを与え続けてくださるお方だという信仰になっています。私たち個人で言うならば「死んでも生きる」という復活への確信です。その信仰はどんなに辛いことがあっても「主の救いを静まって待ち望むのは良い」という忍耐に結びつきます。 祝福を祈ります。