今日の聖句4月6日(木)\(^o^)/ この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。 創世記8:22 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。 ルカ22:19-20 ************* 今週のテーマ:イエスの十字架 きょうの聖書:ヨハネ19:1-16 ヨハネの福音書19章5節6節 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」 「この人を見よ」(エッケ・ホモ=Ecke homo) 18章28節から19章16節まで、28節を費やしてローマ総督ピラトによる裁判の模様が記録されています。18章38節「私は、あの人には罪を認めません」19章4節「私にはあの人に何の罪も見出せない」。19章6節「私にはこの人に罪を見出せない」。19章12節「ピラトはイエスを釈放しようと努力した」と記されています。4回にわたって「無罪だ、赦すべきだ」と言っています。 1回目はバラバを処刑してイエス様を釈放すると言い、2回目はむち打ちだけで釈放しようとし、3回目は処刑しないと言い、4回目はイエス様に向かって「私にはあなたを釈放する権威がある」と言って、ピラトはイエス様を赦免する努力を重ねています。 私たちこの福音書の読者は、イエス様が確かに罪のない御方として、あえて十字架の道を選び取っていることを知らされます。5節の「見よ、この人だ」という言葉は、口語訳では「見よ、この人だ」新共同訳では「見よ、この男だ」リビングでは「よく見ろ、この男だ」現代訳では「ほら、この男だ」永井訳は「見よ。この人」文語では「見よ此その人なり」訳されています。 罪のない御方が、ピエロのような姿にされ、あざけられ、平手打ちされ、罵られて、公衆の面前に立たされています。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)で預言されたメシヤはこの人だと、この福音書はピラトの台詞として訴えています。 祝福を祈ります。