今日の聖句3月31日(金)\(^o^)/ イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。 士師3:9 ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。 ルカ1:68-69 ************* 今週のテーマ:信仰による義 きょうの聖書:ガラテヤ2:15-21 ガラテヤ人への手紙2章20節21節 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 「処罰は終わった」 きょうの聖書はガラテヤ人への手紙の中で良く知られている言葉だと思います。自分の努力や頑張りで律法を守り抜き、その褒美として救いを手に入れるという考えは間違っているとパウロは力説しています。その方法ではだれひとり神を満足させることができず、誰も「義とされない」のです。 キリストが十字架の上で犠牲となって罪の代価を支払ってくださったことを信頼することだけで救いは私たちに届きます。キリストの十字架の出来事と自分自身を合致させ、そこで自分も神からの裁きをキリストと一緒に受けたのだと信じ、断定することで、よみがえられたキリストが私のうちに生き、救いが恵みとして届くのです。 律法を守り抜く努力は悪いことではないのですが、それによって神の救いを得るという考えには無理があるのだとパウロは語ります。後の章に紹介されているのですが、律法は私たちが自分で完全に実行し尽くすことができず、救い主を必要とすることをわからせる意味をもっているのです。 キリストが十字架にかけられた時、私たちも一緒に律法によって断罪され、一緒に神の裁きを受け、死を通過し、キリストのよみがえりのいのちの中で一緒に生かしてもらえるようにされたのです。処罰は既に終わったのです。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 祝福を祈ります。