今日の聖句3月29日(木)\(^o^)/ すべての国々よ主をほめたたえよ。すべての国民よ主をほめ歌え。 詩篇117:1 あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。 使徒2:11 ************* 今週のテーマ:信仰による義 きょうの聖書:ローマ4:1-8 ローマ人への手紙4章3節4節5節 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。 「神様からの認定」 アブラハムは神を信じたのですが、その信仰は一子イサクを神様に献げる決断をした時点で神様に認められました。アブラハムの信仰が充分な信仰として認められたのです。その結果アブラハムは神様から義と認められたのです。これが私たちの信仰の基準です。 信仰による義の反対語は行為による義です。善行を積み重ねて義を勝ち取るという考えです。善行はとても大事なことなので決して否定されることはありませんが、善行を積み重ねて義人になろうとしても義人にはなれません。その努力は「まだ駄目だ・まだ駄目だ」という迷いの穴に落ちるだけです。 神様によって義と認められた人が、世のため人のために善行を積み上げることが大事なのです。ダビデは詩篇の中で「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち、幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人」と謳っています。自分で自分を義人と認定しても、他の人や神様からアウトと判定されたらそれでおしまいです。 神様から義人であると認定されることがなければなりません、神様からの認めがあれば、自分の気持ちや他の人からの批判は無に等しくなります。神様はイエス・キリストの十字架を完全であると認められましたので、私たちとしてはキリストの義に頼るばかりです。私たちが不敬虔であっても、キリストを信じるなら神様から義と認めて頂けるのです。 祝福を祈ります。