今日の聖句3月28日(火)\(^o^)/ 主は私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。 詩篇103:14 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。 2コリント4:10 ************* 今週のテーマ:信仰による義 きょうの聖書:ローマ3:27-31 ローマ人への手紙3章27節28節 私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。 「律法か信仰か」 ユダヤ人は律法を行うことによって救われると考えています。旧約聖書がそのように教えているからです。レビ記を中心にする律法は言葉を変えると「礼拝規定」となります。御父を礼拝する礼拝の献げ方を定めた律法なのです。ですから、神様が命じたとおりに律法を守れは正しく礼拝できるのです。 律法を破るとその人は罪人とされ、礼拝に参加できません。それがルールです。しかし、どんなルールを守っても救われるとか、罪を赦されるということはあり得ません。律法は関係者に罪を指摘するだけです。ルールとは守って当たり前という性格のものです。ルールを守ったからと言って誰もほめてはくれないのです。 一方、信仰とは神様を見上げて生きることであり、救いに関して言えば、イエス・キリストの十字架に注目して生きることです。イエス様が私たちの罪を赦免するために十字架で死んでくださったことを感謝して生きることです。私たちは自分で自分を赦したり、自分が救われているかどうかの判定はできません。 「信仰によって義と認められる」この一語がすべてです。これは神様の宣言であり、判決です。イエス・キリストの受難は私のためだったと信じる信仰であり、私の罪はキリストによって取り除かれたと信じる信仰です。律法を思い出せば、信じて無罪とされた私たちは、初めて御父を礼拝できるのです。信じて無罪とされた人が律法を満たせるのです。 祝福を祈ります。