今日の聖句3月18日(土)\(^o^)/ すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。 詩篇14:3 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 マタイ7:14 ************ 今週のテーマ:大祭司イエス きょうの聖書:へブル9:23-28 へブル人への手紙9章26節27節28節 今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。 「一度だけ」 ここには、旧約聖書の教えにまさるイエス・キリストの犠牲とキリストの再臨が述べられています。キリストの十字架は一度だけであり、それは完全無欠な全能者によるきよめのみ業でした。罪の赦しであり、人生の救いであり、人と罪を切り離して罪を処分した出来事でした。 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、人としてのキリストも多くの人の罪を負うために一度死なれたのです。裁きを受けるべきは私たちでしたが、キリストは私たちのために殺され、殺された後、地獄のどん底まで突き落とされて、死後の裁きまで受けたのです。それはすべて私たちと罪を切り離すためでした。 この身代わりの死と、身代わりの裁きによってすべての人は例外なく赦しと救いときよめを恵みとして与えられたのです。私は救われてないとか、私の罪は私の心の中に在るとか、私の親は救われてないとか、私の子は救われてないなどと言ったり考えたりしてはいけないのです。キリストは既に世界を救ってしまったのです。 ところが、その救いが未だ未完成です。それはこの世の中に現実に「死」というものが存在しているからです。パウロは1コリント15:26で「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」と宣言しています。それが行われるのが再臨の日です。再臨のキリストは無残な死のためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださるのです。 祝福を祈ります。