今日の聖句3月17日(金)\(^o^)/ 主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。 エレミヤ5:3 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。 ルカ 16:10 ************* 今週のテーマ:大祭司イエス きょうの聖書:へブル9:11-14 へブル人へ―の手紙9章13節14節 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。 「良心のきよめ」 ユダヤ社会には、罪に穢れた心をきよめるためには動物の犠牲が必要であるという教えがありました。しかし、現実には動物を犠牲にしても人の心はきよめられませんでした。これは、旧約の時代に、将来、イエス・キリストの身代わりの死による救いときよめが行われることを踏まえてあらかじめ語られたことです。 へブル書はキリストの贖いは良心のきよめだと述べています。私たちは時々、心の中に悪い考えや、悪い欲望が生まれてくることがあります。しかし、それは罪ではありません。悪い考えや悪い欲望が生まれることを誘惑と言います。誘惑を受けることは罪ではありません。誘惑に同意し、誘惑に身を任せた時にそれが罪になるのです。 心に誘惑を受けたので私の心は汚れてしまったと思うよりも、イエス・キリストの十字架は私を赦し、私を救い、私の心をきよめて、私を神の子として贖ってくださったと信じることの方が大事です。キリストの贖いはすでに完了してしまっているので、それを無かったことにすることはできないのです。 良心のきよめとは、自分の間違った考えや、間違った判断を「間違い」として捨て去り、聖書の教えとキリストのことばを自分の考えとし、自分の判断とすることです。それによって私たちの心と生活はきよめられます。キリストを疑うことこそ罪であり、キリストへの疑いというものが人の心を汚すのです。十字架を見上げた時に私たちの心から疑いは拭い去られます。 祝福を祈ります。