今日の聖句3月7日(火)\(^o^)/ 私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちをお見捨てになることがありませんように。 1列王記8:57 主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。 2テサロニケ3:5 ************* 今週のテーマ:ぶどうの木 きょうの聖書:イザヤ5:1-7 イザヤ書5章2節3節4節 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。 「捨てられたブドウ」 旧約聖書ではイスラエルはブドウに例えられ、新約聖書ではクリスチャンがブドウに例えられています。ブドウの木は細くて曲がり、建築用材にはならず、木工の材料にもなりません。ブドウの花を眺めて楽しむということもありません。ブドウは実を収穫するだけの植物です。もし実が実らないならば無用の存在なのです。 ここで言うブドウはイスラエル人でブドウ畑の主人は神様です。主人は畑を掘り起こし、石を取り除いてブドウを植え、外敵を見張る櫓を立て、ブドウを絞る踏み場まで作ってよい実が実るのを待っていましたが、その実は酸っぱいどころか毒を含んでいたのです。 ブドウ畑の主人は大きく落胆し、「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか」と言って嘆きました。良い実を得るためにできることはすべて実施し尽くしたのです。愛情と保護を惜しみなく注いだのですが、恩に報いることはせず、イスラエルは神様に対して反逆で答えたのです。 結局、ぶどう畑もブドウの木も捨てられてしまいました。バビロニヤに滅ぼされたのです。神様を信頼せず、神様の愛を拒否した者の行きつくところは滅びです。滅びゆく人々に最後の救いを届けたのはイエス様であり、滅びる人の身代わりになって十字架で死なれたのがイエス様なのです。私たちが生きる道はイエス様に頼るほかありません。 祝福を祈ります。