今日の聖句1月27日(金)\(^o^)/ その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。 詩篇1:3 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。 ピリピ1:11 ************* 今週のテーマ:出会い きょうの聖書:ルカ9:37-43 ルカの福音書9章40節41節42節 「あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。 「弟子たちの無力」 弟子たちはイエス様から人を救いに導き、病をいやし、悪霊を追い出す力と権威を与えられていました。弟子たちが謙虚にイエス様に従っていた時にはその力と権威によって神の国のために奉仕できたのですが、この場面では無力になっていました。その原因は弟子たちの心がイエス様から離れてしまっていたからです。 弟子たちを含めてこの時期のユダヤ社会はローマ帝国の支配から脱したいという、脱ローマ旋風に包まれていました。イエス様が説く「救い」をローマ帝国からの独立だと考えたのです。イエス様は罪と死の呪いからの解放という意味で救いを説いています。今の日本でも救いとは貧困からの救済という意味でしか語られていません。 しかし、イエス様は十字架の死と復活による霊魂の救いを目指しています。私たち現代のクリスチャンもこの点を見落とすと無力になります。問題は罪の力であり、たましいの死なのです。弟子たちはユダヤ教徒側と議論はしても、罪の力との対決はできませんでした。自分たちが罪の力のとりこになっていることを自覚していないのです。 多くのクリスチャンが自分の犯している罪に気付いていません。明確に言えば、罪からの救いを体験していないということです。教会に来て賛美歌を歌い、説教を聞いて帰るだけの生活です。そこには十字架はありません。したがってキリストから与えられた力と権威は無効になってしまうのです。伝道と宣教は罪と死の力との戦いです。弟子たちはペンテコステの火を受けて初めて罪を知り、赦しと救いを受けて戦えるようになったのです。 祝福を祈ります。