今日の聖句1月2日(月)\(^o^)/ エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。 エレミヤ31:20 あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。 エペソ2:4-5 ************ 今週のテーマ:イエスの栄光 きょうの聖書:マタイ16:21-28 マタイの福音書16章24節25節 イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 「従い者」 私たちが「自分を捨てる」とすれば自分を否定することです。持ち物も地位も名誉もあきらめてきた自分自身、善行を積み重ね、愛を実行してイエス様に従おうとしてきた自分を私は知らない、私ではないと否定することです。献身も奉仕も忍耐も私のしたことではない、すべてイエス様のなさったことです、と言い切ることです。 「十字架を負う」とは罪を認めて処罰を受けるということです。イエス様に従おうとする中で「私は悪くない」「私には罪はない」「私は無罪だ」と言ったなら前途はありません。しかし、「私は罪人です」と罪を認めてキリストに悔い改めるなら私たちに再び生きる命の道が開かれます。 自分が幸せを勝ち取ろうと思ったら、他人を不幸にします。しかし、他の人を幸福にしようと思えば、他の人が幸福になり、自分も幸せを実感できます。イエス様に幸福になって貰いたいという気持ちで、イエス様のために自分の幸福を捨てて生きるなら、イエス様からまことのいのちをいただけます。 「わたしについて来たいと思うなら」と招いておられます。無理矢理に「ついて来い」と強制なされません。嫌々ながら自分を否定したり、嫌々で十字架を担いでも意味がないことです。イエス様は本当に自分から進んで「ついて行きたい」と思う志願者を求めておられます。私は従います。 祝福を祈ります。