今日の聖句12月14日(水)\(^o^)/ その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。 ゼカリヤ2:11 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。 黙示録7:9 ************* 今週のテーマ:主の器 きょうの聖書:エレミヤ17:5-13 エレミヤ書17章7節8節9節 主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。 「愛と義」 主の器とは聖霊である主を内側に持つ器である容器と、主の手に握られて用いられる器である武器とがあります。二つとも主に信頼する人の特権です。その人は水のほとりに植えられた木のようであり、渇くことがありません。常にみずみずしく生き、多くの実を結べるのです。 モーセもダビデも、イザヤもエレミヤも聖霊を宿し、主の手に用いられた立派な主の器でした。しかし、イスラエルもユダヤも主を捨て、主との縁を切ってしまい、荒れ果てた砂漠のような不毛の状態に陥ってしまいました。私はエレミヤ書を読む中で主を捨てる罪の大きさを学びました。 主を捨てたユダヤ人は主の代わりに偶像を礼拝しました。偶像礼拝とは自分の悪い欲望を軸にして生きる生き方のことであり、敵意と罪悪に向いて進んでいく生き方です。貪欲であり、むさぼりとも言えます。ニュースなどで報道される、人生をしくじる人は、このような生き方をしていた人々です。 主を頼りにするとは、キリストの愛とキリストの正義を頼りにして生きるということです。キリストの愛に準じて生き、キリストの正義を手本として生きることです。愛と義をで生きる人が水のほとりに植えられた木だということです。枯れる心配がありません。愛と義の共通点は嘘がないということです。主の器にならせていただきたいと思います。 祝福を祈ります。