今日の聖句8月20日(土)\(^o^)/ その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。 ホセヤ14:6 人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。 ヨハネ15:5 ************* 今週のテーマ:神殿 きょうの聖書:へブル9:11-14 へブル人への手紙9章13節14節 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。 「現実のきよめ」 昔、モーセからダビデまでの時代は神の幕屋で礼拝し、ソロモンからは神殿で罪の赦しと、汚れからのきよめを求めて礼拝していました。その礼拝とは動物を犠牲にして赦しときよめを求める礼拝です。幕屋や神殿はキリストの模型で、動物による赦しやきよめはキリストの十字架の模型でした。 神様がお定めになった時が来て、御子イエス・キリストによる完全な贖いが成し遂げられました。御子の現れにより神殿は不要になり、キリストの十字架による犠牲によって動物犠牲も不要になったのです。しかし、初代教会時代のユダヤ社会では、ユダヤ教のしきたりや礼拝から脱することができない人がいたのでへブル人への手紙が書かれたのです。 イエス・キリストの十字架によって赦されきよめられるということを信じられない人たちに著者は、動物犠牲で赦しときよめを受けられるなら、なおさら御子の犠牲が人々に罪の赦しときよめの恵みを与えないはずはないではないかと言って説得しているのです。 キリストのきよめは根源的なきよめです。それは「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることです」。動物犠牲は形式でしたから、きよめも形式でした。しかし、御子キリストの贖いは実質のものですから信じる私たちは現実に赦されきよめられるのです。私たちはいよいよキリストに仕える人生に邁進していきたいと思います。 祝福を祈ります。