今日の聖句8月12日(金)\(^o^)/ 虐げられている者のためにさばきを行い飢えている者にパンを与える方。主は捕らわれ人を解放される。 詩篇146:7 イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。 マルコ8:6 ************* 今週のテーマ:平和の主 きょうの聖書:イザヤ32:15-20 イザヤ書32章15節〜18節 ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき、私の民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む。 「安らかな憩いの場」 注がれる霊とはもちろん聖霊です。荒れすさんでいた人の心も、荒れすさんだ社会も豊かに潤い、実をみのらせるようになる。いつかきっとそうなるとイザヤが確信していることがうかがえます。人々は偶像礼拝に走り、自己主張と利己主義がぶつかり合って国は崩壊を避けられない状態にありますが、イザヤは神様の御計画に注目しています。 確かに、公正と正義によって統治しないと人の心も社会も治まらないのだと実感します。主である神様がイエス・キリストによって公正と正義を前面に押し出して世界を平和に導いてくださいました。イエス様の十字架が神様の公正であり正義だったのです。それは徹底的に罪と悪を滅ぼすものであり、すべての人に愛と赦しを与えるものだったからです。 「私の民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む」これは神様から授かる平和な生活です。私たちはしばしば自分勝手に「私は大丈夫」と思いこむことがあります。コロナにしても交通事故にしても豪雨災害にしても、安全が確保されているわけでるないのに、なぜか「私は大丈夫」と思うのです。それは危険です。 キリストによって備えられ、キリストによって確立された平和と平安の中に生きない限り真の平和はありません。キリストの保護の中に入ることです。私たちには神様からイエス・キリストというシェルターが与えられていてます。生きていればこの世で、死んだ先は神様の御国で永遠に安らぎます。常に公正と正義を土台にして正しく生きること、そして、愛を基本として生きる私たちには神様の守りが届きます。 祝福を祈ります。