今日の聖句7月24日(日)\(^o^)/ 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。 詩篇46:4-5 見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 黙示録21:3 ************ 今週のテーマ:祈り きょうの聖書:ルカ18:9-14 ルカの福音書18章12節13節14節 「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神様、罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。 「謙遜な祈り」 このたとえ話は、イエス様が、自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに向けて語ったものです。パリサイ人と取税人が祈るために神殿に上りました。パリサイ人は自分が正しいこと、断食も献金も怠らないことを自慢しした。 取税人は「神様、罪人の私をあわれんでください」と言ってただ憐れみを求めたのみでした。イエス様はパリサイ人よりも取税人の姿勢を高く評価して、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのですと指導されました。 キリストの恵みは憐れみであり、キリストの愛は罪の赦しという形で私たちに授けられます。自分は正しいと言って罪を認めない人にはキリストの愛は届いてこないのです。自分の罪を深く反省して憐れみを求めることが肝心です。キリストは自分のいのちを犠牲にしてまで私たちに赦しをくださるのです。 そもそも、私たちに全能の神様に対して祈る資格も権利もありません。神様に反抗したために捨てられて当然のものです。生かされていることさえ神様の大きな憐れみです。神様に向かって私は正しいとか、人に向かって私のほうが清いなどと言える立場ではありません。そのことを踏まえて生き、そのことを踏まえて祈る者でありたいと思います。 祝福を祈ります。