今日の聖句7月10日(日)\(^o^)/ 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。 エレミヤ18:6 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。 ピリピ2:13 **************** 今週のテーマ:モーセの歌 きょうの聖書:ヨハネ5:41-47 ヨハネの福音書5章46節47節 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。 「聖書とキリスト」 ヨハネ伝5章はベテスダの池で38年間患っていた人をイエス様が「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という一言で癒した後、パリサイ人から安息日に人を癒し、また、癒された人が床を取り上げることはモーセの律法に違反することだと言いがかりを付けたために起こった議論が記録されています。 イエス様はパリサイ人たちに、モーセが語ったことはイエス・キリストに関することなのでモーセを信じないならばどうしてわたしのことばを信じるでしょう、つまり、モーセを信じるのならばイエス様を信じなさいと言われたのです。聖書とはそもそもイエス様を言い表す書物です。聖書はどこを切ってもイエス様の真っ赤な血が流れると言い放った人もいるそうです。 信仰の父アブラハムもエジプトの宰相ヨセフも、ダビデ王もイエス・キリストを予表する型でした。出エジプトも、バビロンからの帰還も悪と罪の奴隷になった人が、イエス様によって神様の前に立ち返ることの予表であり型でした。「聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)というみことばは、私たちの聖書に向かう心と目を決定的にイエス様に釘付けます。 パリサイ人たちユダヤの宗教指導者たちは律法の研究にのめり込んでしまい、肝心要のキリストによる救いが全く見えなくなってしまっていたのです。私たちがイエス様を信じて聖書を読むと、聖書のみことばは私たちの心を吟味し、心の中を照らし、罪を指摘し、素直な心で悔い改める思いを起こさせるものです。イエス様を拒否して聖書を読んでも聖書の真の意味を理解することはできないのです。 祝福を祈ります。