今日の聖句3月22日(火)\(^o^)/ これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。 詩篇18:24 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 ルカ19:6 ************** 今週のテーマ:委ねる きょうの聖書:2サムエル12:18-23 サムエル記第二12章22節23節 ダビデは言った。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」 「子どもの死」 ダビデが人生で一度犯した大罪があります。それは部下でありイスラエルの戦士ウリヤを謀殺し、その妻バテシバを奪ったことです。そのバテシバが生んだ子どもが病気になり、死の淵をさまよっていた時、ダビデは真剣に祈りました。その祈りは自分が犯した罪の反省と悔い改めであり、子どもの回復を求める祈りでした。 預言者ナタンのダビデへの罪の指摘が的確だったこともあり、ダビデは自分の罪の深さを悟って祈りましたが、神様はダビデの罪の責任をダビデの子の死という形でダビデに負わせました。ダビデは自分の罪の結果、神様から与えられる様々な苦しみを受け取る決心をして断食を止め、日常生活に戻ったのです。 神様に委ねて生きる信仰生活は、恵みと祝福も、試練と苦しみも合わせて感謝して受け取るべきものです。神様はム大きな憐れみをもって恵みと祝福をくだし、大きな愛と共に試練と苦しみをくださいます。それは凡人である私たちへの教育プログラムです。私たちは試練を経験しないと神様の真理を勉強できないのです。 おそらく子どもの死ほど人の人生に大きな苦しみになる物はないのだと思います。子どもの死は自分の未来が消滅するという意味になるからです。たとえ自分が死んでも子どもは助けなければならないのです。子どもの死を経験したダビデはこの時点から、神様への信仰にまっしぐらになっていきました。 祝福を祈ります。