今日の聖句1月25日(火)\(^o^)/ 主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。 エレミヤ10:24 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。 1テサロニケ5:9 *************** 今週のテーマ:イエスの戦い きょうの聖書:マルコ6:1-6 マルコの福音書6章2節3節 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。 「ナザレのつまづき」 イエス様は出身地であるガリラヤのナザレで聖日礼拝をしました。集まった人々はイエス様の親であるマリヤとその夫ヨセフについてよく知っていました。イエス様の弟妹たちもここに住んでいましたので町の人たちはイエス様の家族についてよく知っていたのです。 ヨセフが大工であり、宗教の専門家ではないこと、マリヤがヨセフとともに生活するようになる前に一人で私生児としてイエス様を出産したのだとも思っていました。この家族が普通の人であり、普通の家族の一人であるイエス様が世界を救う救いの神であるとは到底考えられなかったのです。 その結果、ナザレは町ごとイエス様につまづいてしまい、イエス様から注がれる神様の恵みを受けそこなってしまったのです。ナザレの人々はイエス様の人間としての側面でのみイエス様を見てしまったのです。それは今日に至るまで多くのユダヤ人の間で引き継がれている考え方です。 一人の人間が存在し、同時に神として存在するということを認めることはとても難しいことです。私たちがイエス様を神様として信じることができたのは聖霊様の力の現れ以外の何ものでもないのです。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(1ヨハネ5:5)ということです。私たちは恵みによって救われたのです。 祝福を祈ります。