今日の聖句10月26日(火)\(^o^)/ ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神主の御名を呼び求める。 詩篇20:7 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。 へブル12:1-2 *************** 今週のテーマ:信仰の先輩とともに きょうの聖書:ローマ1: 16-17 ローマ人への手紙1章16節17節 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 「義人の信仰」 パウロはクリスチャンになる前はサウロという名前の熱心なユダヤ教徒でした。クリスチャンを迫害していた時に、復活したイエス・キリストがまばゆい光となってパウロの面前に現れ、パウロの人格と人生を造り替えてしまいました。その後ユダヤ教を捨ててキリスト教の宣教師となったパウロはユダヤ教当局から裏切り者として生命を狙われるようになっていました。 ローマ教会はユダヤ教を信じるユダヤ人によって立てられた教会でした。パウロはその人たちに対して、裏切り者りと呼ばれることは大きな恥ですが、イエス・キリストの福音の中にこそ神の義が存在しているので、ユダヤ教を捨ててクリスチャンになったということは決して恥ではないと明言しているのです。クリスチャンになることは神様への裏切りではなく、神様への誠実なのです。 「義人は信仰によって生きる」という言葉で、クリスチャンとして生きることは裏切り者であるどころか、むしろ義人としての生き方なのだと力説しています。日本でも昔はクリスチャンが迫害され、政府からも弾圧を受けたことがありました。いたずらっ子はクリスチャンに向かって「アーメン、ソーメン、ヒヤソウメン」などと言ってからかったものです。 しかし、イエス・キリストの十字架による罪の赦しという救いを受けたクリスチャンは脅しにも中傷にも負けることはありません。私も洗礼を受けた直後に「キリストなんか信じると肺病になるぞ」と嫌がらせを受けたことがありましたが、救いの確信と救いの輪喜びに満ちていた私はその場で、その人に「キリストを信じると救われるの手ぜすよ」と証していたことを思い出します。 祝福を祈ります。