今日の聖句10月11日(月)\(^o^)/ これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。 エレミヤ31:33 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。 ルカ21:33 **************** 今週のテーマ:交わりの崩壊 きょうの聖書:マラキ1:11-14 マラキ書1章12節13節 あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。─万軍の主は言われる─あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。─主は言われる─ 「礼拝の衰え」 これは、世界中の異邦人が創造主への真実な礼拝を捧げているのに、神の民であるイスラエルが主への礼拝をないがしろにするとはどういうことたと糾弾している文章です。「主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている」とは、ユダヤ人が神殿や会堂での礼拝を批判している言葉です。礼拝の在り方が問題です。 「見よ、なんと煩わしいことか」とは、聖日礼拝がうっとうしく、面倒で嫌になってしまったという意味です。更に、献げものを献げる人が、盗んできたものや、病気で使い物にならない動物や、傷ができて売り物にならないものを捧げるとは何事だという叱責の言葉です。当時の礼拝は献げ方がくるってしまったのです。 現代のクリスチャンの中にも日曜日に教会へ行くことが億劫になり、礼拝に意味を感じられないと言う人がいます。それには牧師に最大の責任があるのですが、牧師だけでなく礼拝するしクリスチャンの立場でも、御名が崇められる、実質的にキリストと礼拝者の間に親密な交流が保たれる礼拝を守る努力も必要です。 私たちとキリストとの間の心の交わりが途絶えるのは、一口で言えば、私たちが罪を犯した時です。罪を犯していないとすれば、与えられたみことばを誠実に実行していない時です。私たち人間同士の間でも約束を破ればたちまち関係は悪化します。マラキの時代、キリスト誕生の400年前はユダヤ人と神様との交わりが衰えていたのです。 祝福を祈ります。