今日の聖句10月10日(日)\(^o^)/ しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。 2列王記5:17 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 ローマ12:1 ***************** 今週のテーマ:交わりの崩壊 きょうの聖書:マタイ24:45-51 マタイの福音書24章47節~51節 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 「再臨を信じる信仰」 前の段落で目を覚まして忠実に主人に仕えるしもべの例が挙げられ、ここでは目を覚ましていない、つまり眠りこけている人、即ち悪い僕の姿が描かれています。第一には、「仲間を打ちたたく」という高慢で、第二には「酒飲みたちと飲んだり食べたり」という世俗化です。イエス様は「その報いを偽善者たちと同じにする」と警告しています。 主の僕という身分にありながら、このしもべは何故このように堕落し、遂に偽善者、学者パリサイ人たちと同じ厳罰を受けることになったのでしょう。その根本原因は「主人はまだまだ帰るまい。と心の中で思」った、心の油断であり、眠りこけ、カスになった信仰でした。 このしもべが考えた「主人はまだまだ帰るまい」ということは帰るまでにはまだまだ時間があるということではなく「主人が帰ってくるというのは嘘だ」という判断です。この再臨の約束を信じない不信仰がこのしもべを「主のしもべ」という謙遜から高慢へ誘い、主人のものを預かっているという慎みから、無軌道な乱痴気騒ぎへと転落させたのです。 キリストの再臨と終末は「遅い、或いは無い」という考えほどクリスチャンを高ぶらせ、世俗化させる考え方ははありません。今、この瞬間に「御再臨!」となった場合を想像して、「マズイ」と思うようでは眠気がきているのかも知れません。主のしもべという名誉ある立場を輝かせる生活をしましょう。再臨の約束はイエス様が命をかけた約束で必ず実現します。 祝福を祈ります。