今日の聖句6月27日(日)\(^o^)/ われらの主は偉大であり力強くその英知は測り知れない。 詩篇147:5 神にはどんなことでもできるのです。 マルコ10:27 *************** 今週のテーマ:信仰の助け合い きょうの聖書:マルコ9:33-37 マルコの福音書9章35節36節37節 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」 「仕え合う事」 キリストの死と復活が話題になるごとに弟子たちが気にしたことは、キリストを死に追いやる自分たちの罪深さや悔い改めではなく、キリストの地上での活動が終わったあとの神の御国における自分たちの席次でした。このころの弟子たちにはまだキリストを見倣って生きるという発想がありません。 私たちの罪のために十字架に死に、私たちを救うために死の中からよみがえられたイエス・キリストの贖いです。これを忘れるとき、教会には裁きあいや席次争いが起こります。自分の罪を自覚してキリストの贖いの愛の中で、恵に感謝して生かされる人こそ教会でも御国でも価値ある人となります。 天の御国で一番偉い人とは子どものように自分を低くする者だとイエス様は教えました。子どもとは年齢の低いものだけではありません。無価値と思われている未成熟な成人も含まれます。あるいは自分を無価値なものとし、無力なものとして謙遜に生きる人もいます。イエス様はすべての人に仕えて生きたのです。 「このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とあるように、信仰の弱い人、無力な人、無価値と思われている人を、イエス・キリストの十字架によって贖われた人として認め、受け入れる人がキリストから期待される人です。互いに仕えあい、互いに建てあげあっていきるのが信仰生活です。 祝福を祈ります。