今日の聖句5月18日(火)\(^o^)/ 主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた。主は情け深くあわれみ深い。 詩篇111:4 彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 ルカ24:30-31 *************** 今週のテーマ:受け入れるイエス きょうの聖書:マタイ7:1-6 マタイの福音書7章1節2節3節 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。 「優しく生きる」 「さばく」という言葉は「有罪に判定する」という意味です。ですからさばいてはいけないとは、自分の隣人を有罪と決定してはならないということです。3節から5節にかけて「兄弟」という言葉が3回出てきているので、この戒めが信仰を持っている兄弟姉妹に関する戒めであることがわかります。 有罪という判決を下すのは神様のみができることであり、イエス様は私たちに赦しの判決を与えてくださったのです。教会の中でさばき合いが行われては、せっかく神様を礼拝しに来たのに、その横合いから「誰それさんがこんなことを言っていた」とか「誰それさんがああだ・こうだ」などの雑音が入ってきては神様と礼拝者の間にヒビが入ってしまいます。 イエス様が「さばいてはいけません」と言っているのは、私的な個人的判決、非合法な精神的リンチを行ってはいけないと言うことです。他人に問題がありそうなとき、正規の手続きを踏まずに個人的判断で判決を下してしまってはならないのです。私たちはお互いに欠点のあるものであり、赦しあわなければ生きていけない存在なのです。 さばいてはいけない理由は、さばいている自分が「さばかれないため」です。裁判所もありますがそれはさて置き、さばくことができるのは神様です。神様を差し置いて、神様の領分に踏み込むなら、それは咎められます。お互いにお互いの長所に目をとめて、優しく生きて行きましょう。イエス様は私たちを優しく愛で包んでくださいます。 祝福を祈ります。