今日の聖句5月6日(木)\(^o^)/ すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き生けるものすべての願いを満たされます。 詩篇145:15-16 それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。」 ルカ12:22-24 **************** 今週のテーマ:新しい生命 きょうの聖書:ローマ8:1-17 ローマ人への手紙8章14節15節16節 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 「きよめ」 ローマ人への手紙の大きなテーマは「きよめ」です。7章ではきよめられない人間の苦しみが切々と述べられています。それは、善を行いたいと思うのに悪を行い、罪を止めたいと思うのに罪を止められないという苦しみです。純粋な信仰を以て生きたいと思うのに自分の心と生活の中に不純なものがあって、それを始末できない苦しみです。 この苦しみは正しく生きていこうとする人について回ります。正しく生きようとすればするほど自分の中にある不正が気になったたまらないのです。大体、クリスチャンとは罪を犯さず、正しい生活をしています。それなのに別に自分の心の汚れが信仰生活の妨げになってしまうのです。外面と内面に違いがあることが問題になるのです。 自分で自分を二重人格者ではないかとさえ思うのです。この問題はキリストを信じる信仰によって解決しなければならないことです。この問題が解決されないと礼拝そのものが成立しなくなってしまいます。そこで私たちが導かれて行くところがキリストの十字架なのです。 地獄に落ちる以外に生き場のない私たちに代わってキリストが死に、地獄のどん底に落ちてくれた、ということへの信仰です。それでパウロは「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」と言っているのです。神の御霊に導かれるとは、御父を敬い、御子を愛して生きることであり、聖書のみことばを基準にして生きることです。私たちの罪の汚れはキリストが処分してしまったのです。 祝福を祈ります。