今日の聖句4月28日(水)\(^o^)/ このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。 ホセヤ11:3 私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。 2ペテロ3:15 *************** 今週のテーマ:新しい契約 きょうの聖書:へブル9:23-28 へブル人への手紙9章26節27節28節 今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。 「確実な救い」 人が確実に死を迎えるように、それ以上確実にキリストが人を救うという宣言がここにあります。キリストの救いは確実です。キリストの十字架と復活は一度限りのものだと言われています。一度で十分であり、やり直しはしないということです。この次にキリストが天から降るときは邪悪を滅ぼし、永遠の神の国を建て上げるのです。 私はキリストを信じて救われなかったという人を見たことがありません。キリストを信じた人はキリストによって、過去に犯した罪を赦され、心に受けた傷を癒され、自分の心の中にある神様を否定する気持ちを消滅させられています。しかも、キリストの愛に包まれて完全な安らぎの中で生かされています。 律法主義を柱にするユダヤ教の教理では人を救うことはできません。へブル人への手紙の著者はユダヤ人を律法主義の束縛から解放するために、イエス・キリストだけに救いがあると力説しています。クリスチャンの中で救いの確信に至らない人は律法主義的な礼拝をしている可能性があります。 教会に行ったから、献金をしたから、祈ったから救われるだろうと思ったのにキリストの愛も安らぎもないということが律法的なのです。何々をしたからではなく、自分のすべてをキリストに任せてしまうこと、それがキリストを信じるということです。キリストは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いています。 祝福を祈ります。