今日の聖句4月1日(木)\(^o^)/洗足木曜日 なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。 ヨブ33:13-14 イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。 ヨハネ18:20-21 *************** 今週のテーマ:イエスの苦しみ きょうの聖書:マタイ27:15-31 マタイの福音書27章24節25節26節 ピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。 「バラバの身代わり」 ここは金曜日の朝のピラトの法廷です。総督は過越の祭りには群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていたので、暴動と人殺しのために牢にいたバラバを処刑して、イエス様を釈放しようとしました。ところが集まっていた人々はイエス様を十字架につけて重罪犯のバラバを釈放するように激しく求めました。 この法廷でユダヤ教徒の罪深さが強調されています。ピラトだけが常識のある人として描かれています。さらに、イエス様の処刑方法を十字架刑ににするように要求した点もユダヤ教徒の罪です。もともとバラバが十字架にかけられる罪を犯していたので、それがイエス様に振り替えられたのですが、ユダヤ教の律法では神への冒涜は「石打」と決められていたのですがその律法を破っての十字架要求でした。 もう一つの罪はピラトが裁判を放棄したとき、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」とうそぶいたことです。その結果は、起源70年のローマ軍によるエルサレム神殿滅亡という形で彼らの上に降りかかってきました。救い主を処刑した責任はピラトよりも神の民そのものにありました。 バラバは文字通りキリストの身代わりによって救われました。無罪のイエス・キリストの死はバラバだけではなく、全世界のすべての人のためでした。それを証明するためのピラトの裁判だったと言えるのかもしれません。バラバほどの極悪非道の罪人さえも無条件で赦されるのならば、イエス・キリストの死はすべての人に赦しをもたらすのです。 祝福を祈ります。