今日の聖句3月31日(水)\(^o^)/ あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。 箴言23:17 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。 ルカ23:24 ************** 今週のテーマ:イエスの苦しみ きょうの聖書:マタイ27:1-14 マタイの福音書27章2節〜5節 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 「ユダの後悔」 きょうの聖書は受難日の出来事です。ユダは首をつって死にました。しかし、ここに至るまでの彼の態度を見ると、ぺテロよりもずっと好感が持てる振る舞いをしています。「イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して」とユダは後悔して形に表しています。 同じイエス様がののしりとツバキを顔面に受けているときのペテロは「そんな人は知らない」と突っぱねました。鶏が三度鳴いて我に返ったときも人に顔を見られまい、外に出てから泣いています。そんなペテロに比べたらユダの方がまじめな姿を見せています。 ユダはサンヘドリンの議員の前で公式に「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と自白しています。この告白は、自分たちの手口が不正であったことを暴露し、「足を洗う」脱退通告でもあります。ペテロが怯えていたことに比べれば大胆で率直です。それなのに自殺しなければならなかったのは、ユダは後悔だけしかしてないということです。 根本的な間違いは後悔がイエス・キリストに向けられず、引き立てられていくイエス様のそばに駆け寄ってお詫びするということがなかったからです。ユダにとってイエス様は優しい先生であっても「救い主」ではなかったのです。私たちはイエス・キリストを自分を罪から救う救い主として信じることが何より大切です。 祝福を祈ります。