今日の聖句3月30日(火)\(^o^)/ ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 イザヤ9:6 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」 2ペテロ 1:17 *************** 今週のテーマ:イエスの苦しみ きょうの聖書:マタイ26:69-75 マタイの福音書26章73節74節75節 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。 「キリストに知られる」 「あー、やっちゃった」ついさっき「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と言ったばかりなのに。・・・こういう失敗は私たちの生活の中にしばしば起こる問題です。不意に襲う小さな試みに勝てるかどうかによってその人の力が分かるのです。これは自分の力で生きようとするキリストに頼らない人の弱さです。 そのペテロの弱さをイエス様はご存じで「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われていました。ペテロの弱さはイエス様に知られていたのです。私たちの知らない自分の弱さです。そこまで自分を知ってくれている方がいるとは何という驚きでしょう。 主キリストに知られている自分こそ本物の自分の正体であり、主キリストが私という者を知っていてくださるという知識こそもっとも当てになる知識です。キリストは私たちが自分で知っている程度の罪を背負われたのではありません。私たちが知らないキリストだけが知っている私たちの罪まで一切合切を背負われたイエス・キリストです。 私たちは自分の誓いや決心でなく、イエス・キリストに知られていることに一切の望みを託すのです。私たちは自分を知りませんが、イエス様は私たちを完全に知っていてくださいます。そして私たち神様にも人にも不真実ですがイエス・キリストはご自分を言い表すのにも、私たちを言い表すのにもご自分を欺くと言うことのできない御方です。 祝福を祈ります。