今日の聖句3月22日(月)\(^o^)/ この苦しむ者が呼ぶと主は聞かれすべての苦難から救ってくださった。 詩篇34:6 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 ルカ11:10 *************** 今週のテーマ:神のさばき きょうの聖書:エゼキエル9:1-11 エゼキエル書9章5節6節 私が聞いていると、ほかの者たちに主はこう言われた。「この者の後について都の中を行き巡って、打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない。年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。 「神様の裁き」 エゼキエルはバビロンに捕囚となった5年後から捕囚ユダヤ人に対して神様のみことばを語った預言者です。エゼキエルの父親はエルサレムで名の知れた祭司ブジで、捕囚前のエゼキエルも祭司職についていました。エゼキエルの預言の中心はイスラエルの復活でした。 きょうの聖書では、バビロンにいるユダヤ人に対して神様の裁きが下されるということであり、まず初めに宗教指導者から裁かれるという内容です。そしてその裁きは宗教経験や年齢にも性別にも関わらず、全く一斉に断行されるのです。ただし、忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々はその裁きから除外されたのです。忌み嫌うべきこととは罪であり偶像礼拝です。 イスラエルが神様の憐れみを受けて復活させられるためには犯した罪が清算されなければならなかったのです。神様の裁きは何時の時代でも宗教指導者から始まり、一般の人へと広げられていきます。今の時代ならば、教会の指導者がはじめに裁かれ、次いで一般のクリスチャンへと裁きが広がるのです。 罪を犯した人が神様の裁きを免れるということはありません。すべての罪びとが神様の裁きの対象なのです。私の目の前でも多くの教会指導者が裁かれていきました。それは礼拝者たちの中から消えていくという形で現れます。神様は罪を犯してなお悔い改めない人の礼拝は受け付けないのです。キリストを礼拝できることがまさに神様の恵みであり、私たちの救いなのです。 祝福を祈ります。